2018年06月20日

イガイガランド便り

イガイガランドはその名の通り、
イガイガチクチクのタラの木が
いっぱいではあるけれど
理想としては英国庭園。

ハーブ群生の中、大きな木の木陰で
ゆっくりお茶をしましょうが理想。

イガイガランド・英国式.jpg

そうは気づいていなかったのだが、
有働薫氏翻訳の、
ジャン=ミッシェル・モルポワ『イギリス風の朝』をみて、
ほほう、我が身は英国庭園を目指して
奮闘していたのか?と思った。

イガイガランド・英国式_柳の下.jpg

わが庭園も写真で見ると
大きな柳の木の下に本を並べて、
さあ、お茶でも……という雰囲気ではあるが、
それは英国婦人の場合。

私はドロドロの手に、クワを握って
地べたを這いまわっているので、
英国風庭園の農婦というところか?

靴は履いてるものの、
サンダル風安直なものなので、
半ば裸足と同じ。
足の裏もゴワゴワして色も真っ黒、
洗っても落ちない。
英国風を気取るには麗しさに欠けるありさまだ。

麗しくない農婦がいるものの、
休憩にはもってこいの庭。
遊びに来てください。

イガイガランド・タラの芽.jpg

写真はタラの芽

お茶つき、休憩、無論無料です。



posted by あがわい at 21:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

ピケ子、おやすみなさい。

猫のピケ子が夕刻6時、
国道27号線で事故死。

私のとんでもない不注意からの事。
信じられない思いです。


桜見に出かけたのです。
久方ぶりに犬も散歩。
川べりの鉄橋の下あたりに今は八重桜、関口が満開のはず。

無論、猫は連れていくつもりはありません。
家の中に閉じ込めたはずでした。
ところが何度詰め込んでもまた飛び出して……
結局一緒に連れていく破目になったのです。


ずっと海岸ぞい、
見え隠れしながらついてきていたのですが、
一か所、国道127号線を渡るところがありました。
国道の向こう側にあるポストに1通投函をと思ったのです。
急ぐ必要もない郵便を、なぜ?


疾走する車におびえながら、
必死で私たちを目指すピケ子。

一歩遅れて向こう側に取り残されていて、
そして、そのまま車の列の中に敢然と飛び込んだのです。


私の悲鳴で車は急停車、
私は縮こまって横向きに倒れているピケ子を抱え上げ……
その時はピケ子はまだ暖かで、
微かな‎希望も持ってピケ子を抱いてそろそろと家に向かい……


今、八重桜の中で冷たくなった美しいピケ子がねむっています。

ピケと花.jpg

ピケ2赤い花.jpg

お茶目さんで、聡明で、
ワンちゃんたちが大好きで、
いつもワン君たちを追っかけていたピケ子が、
珍しくおとなしくじーっと。

ピケ子1.jpg

ピケ子1.jpg

ピケ子2.jpg

その横で美しくもなく、
聡明でもない、
ただ無慈悲なだけの役立たずのボロクズが、
転がって泣いています。









posted by あがわい at 23:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月21日

8月21日・フレッツ光

ドコモ回線でフレッツ光。
開通して2週間はスイスイ、コレは便利とおもっていたら、
漸次たらたら遅くなり、今日はアマゾン買物途中で動かなくなった。
開通40日でフレッツはダウン。
で、タクシーで、コメリまで¥5000でドッグフード。
アマゾンと同じもの3カ月分買った。

ここは群馬県嬬恋村、北軽井沢地帯。
突然、ワイモバイルが圏外になったり……
異様なことが多い。
   
ともかくアマゾンで買えないので、あちこち買物に出かける。
高崎とか前橋とか、いい町だ。
PCに閉じこもるって、かなり退化してたことがわかる。
でもレストランは駄目、味はイマイチ。 

ともかくフレッツ光は電源からカットした。
群馬県に来てまだ2カ月、群馬の方、教えて下さい。
これがドコモ回線の普通なのかな?


posted by あがわい at 21:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月30日

瀬崎祐 評 ◆ 魚野真美詩集『天牛蟲』

『魚野真美詩集 天牛蟲』表紙.jpg
魚野真美詩集『天牛蟲』
瀬崎祐さまからご感想をいただきました。

この束縛から無縁であるような世界の広がり方はどうだろう。
どうせ書くなら、こうやって解放されなくては意味がないだろ、と言われているような気分になってくる。

ときに意地悪く、また無責任に、
どこまでも自由な言葉たちは新しい世界を形づくる。

全文は「瀬崎祐の本棚」にて公開されています。
ぜひご覧になってください。

瀬崎さま、誠にありがとうございました!


posted by あがわい at 23:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月17日

5・31「詩の虚言朗読会・最終回」

「詩の虚言朗読会」は
主宰者、山岡遊が故郷の高知への帰還のため最終回となった。

会場は、埼玉県与野市と遠隔地ながら
毎回沢山の入場者を集め、
山岡氏らしい独特の構成で盛り上がった。
終演を惜しむ人も多い。

まず山岡氏の提案で集まったのが
杉本真維子さんと私の3名。

新宿駅近くのやたら賑わう小さな店で
マッコリを飲みながら山岡氏の怪気炎を眺めた。

山岡氏は、加藤温子さんの紹介。
どういう事件だったのか、詳しくは忘れてしまったのだけれど、
山岡氏が清水旭と大喧嘩、
ついては貴女の所にも山岡非難の声が届くだろうが、彼は正しい。
ついでに言えば、彼はいつも正しい、絶対に正しい……

という極めて長い電話であった。

高円寺界隈の自転車置き場で二人は喧嘩したらしい。
清水氏はチョコチョコ悪事をやる人で、
実は私も便乗したこともある悪事好き。
ただ清水氏は逃げ足が遅い。
悪事がたちまち露見してアタフタ、逃げずに逃げられず……であった。
私も助ければいいものをそれはせず……
苦労する清水氏を遠望して、ま、喜ぶといったタチの悪さであった。

さて最終回、
イガイガボンからの出し物は「大菩薩峠」。
従来、机竜之介は
長身痩躯も頑健男、十亀脩之介が演じていたが
十亀氏が海外公演のため、渡辺剛己氏に来ていただいた。

最終回・虚言朗読会_001.jpg

渡辺氏は写真のとおり、ずんぐりむっくりで、
いかにも不似合いと不安であったのが、予想外の圧倒的な名演で驚いた。

音響を最大限にアップ。
徹底的に過激に踊りまくって唖然。
独自に詩編を解釈したわけで、こういう解釈もあったのか、と驚いた。

元々は中本道代さんの「大菩薩峠考」という評論が起点での詩編。
自作ながらこの詩編を私自身は理解できていなかったわけで、
最初の初演の時に中本道代さんから注意を受けたもの。

最終回・虚言朗読会_002.jpg

希代の不死身の殺人鬼、机竜之介の事、
いくらでも切り口はあるのだろうが、
結局はこれは過激な愛の詩編、
竜之介の「愛」を抽出したものだったのではなかったか?と
遅ればせながら気づかされた。渡辺氏のおかげである。

最終回・虚言朗読会_003.jpg

渡辺氏は元々は舞踏家というよりは役者。
万有引力の舞台監督も経験というので、
ひょっとして寺山修司的な解釈だったのだろうか?

次に上演した「変形型天虫恋模様」
これは恋愛痴情殺傷事件。

最終回・虚言朗読会_005.jpg

作詩は「大菩薩峠」と同時期。
こちらは強力な、いわば八百屋お七タイプの女性を
舞踏家、安田理恵氏に熱演していただいた。

双方ともが、一切の観念、理念、イデオロギー抜きの
猥雑な江戸時代後半が舞台に
ひたすら「愛」また「生命」の核へと驀進する世界なわけで、
なぜとなく大菩薩峠作者、中里介山をかいま見たような気がした。

最後は同じく中里介山「大菩薩峠」ファンの井川博年氏の賞賛をいただいて幕。

最終回・虚言朗読会_004.jpg

山岡氏の年間の朗読会の熱誠を称えて、ここに熱く感謝したい。

最終回・虚言朗読会_000.jpg

なお、
現在、山岡遊氏は下記住所に居住。
元気に張り切っているようだ。

最終回・虚言朗読会_006.png



posted by あがわい at 09:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

最終回・虚言朗読会『背走する太鼓』告知

2017-4_朗読会「背走する太鼓」.jpg

2017年、
最終回・詩の虚言朗読会
『背走する太鼓』

のお知らせです。


出演
阿賀猥
杉本真維子
山岡遊
X(謎の詩人?)

オープンマイク大歓迎!!
 
 
開催日時
2017年4月1日(土)
午後6時・開演


会費
2000円(1ドリンク付き)

 
会場
カフェ・ギャラリー・シャイン(Webサイト)
〒330-0071 さいたま市浦和区上木崎1-9-20
Tel 048-833-1045
 
京浜東北線・与野駅(Googleマップ)

ライブ会場としても40年の歴史を持つ、老舗カフェです。
ロータリーのある西口から出ていただき、
駅沿いに左へ進むと、右手にレンガ造りの建物がございます。
「SHINE(シャイン)」の看板が目印です。
徒歩30秒程度の距離です。
 
武蔵野線でお越しの際は「南浦和」から
京浜東北線(浦和・さいたま新都心・大宮方面)にお乗り換えください。


ご来場、心からお待ちしております!
 

連絡先
彩の国夢探偵団・山岡
(携帯)080-5060-2529
(自宅)048-822-2529





posted by あがわい at 22:34| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎5

「現代詩」は難解と言われる。
よほどに感性の研ぎ澄まされた人、
あるいは学殖豊かなし知性がなければ
読み解けなくなってしまった。

また、そういう詩でなければ、
良い詩、優れた詩とは見なされなくなってしまった。
でもこれはひょっとして「嘘」のせいではないか?
「難解」は嵯峨信之に言う「嘘の傘」ではないか?

真実の自分、実際の自分は、
なんとも無様な生き物、
情けない魂いしか持たないもの、
人前に出せたものではない。

それを隠蔽しようとして、
そういう自身を守ろうとして、
幾重にも嘘を塗り固めて……
こうして、いつか事実からは離れ、
事実からもほど遠くなり、
かくして元々の中身がなんだったのか
分からなくなってしまった、
解きがたい難解なものになってしまった。
……こういうナリユキではなかったのか?


文学の目的として、
真実追求のため、
あるいは本当の自分を探すため文学をする、
こう言う人が多い。
だが本当の自分など、誰だって知っているもの、
知らないはずがない。
真実も同じ、よくよく知っているのだ。

何とも無能でしょうもない自分を、
いまさら探してどうなるものでもない。
八方塞がり、どうみても未来の閉ざされたままに、
真実を追求したところで、今更運命が開けるはずがない。

自身とは異質の「嘘」の自分を
つくりだそうというのではないか?
あるいは事実とは違う嘘の現実を
新たに作り出そうとしいているのではないか?

そこで輝かしく、
あるいは美しく健やかに、
羽ばたこうというのではないか?

このように嘘は重宝なものである。
日常に便宜と幸福をも呼び込んだりもする。
こうしていつの間にか嘘は膨張し、
拡大して、知らぬ間に私たちの多くにしみ入って、
嘘が多勢を占めるようになってしまったりする。

多勢の「嘘」は、ひたすら自身を膨張、
そうでないもの、嘘ではないものを、
大手を振って見下して、
追い詰め、排除してていく……

たまの嘘はいい。
だが、嘘が真実、事実を
排撃するまでに強力となると、どうなるのか?

これは厄介だ。
どう見ても見良いものではない。
いい歳こいで今更お手て洗っても、
さんざ汚れてしまったお手ては奇麗にはなれない。
ド汚い手を振りかざしてチンとお澄まし、
きれいごとを言うなんて、笑いものにしかなれないだろう。

----------------------------

人格者

私は人格者というものを信じない。
そういう性向は元々人という
種族にはあり得ないものである。
「人格者」とは、非科学的、無知蒙昧、
鈍感が生み出した恥知らずの妄想でしかないだろう。

私たちは皆、あの悪賢く小汚い猿の末裔である。
この事実は動かない。真実は変えられない。
血も争えない。
一皮めくれば、すぐこのエテ公が首を出す。
嘘で隠しても無駄、
バカバカしい努力はすべきではないと思う。


嵯峨氏は私の恩師である。
特に私生活では要所要所、
かけがえのない忠告と指導をいただいてきた。
氏の忠告に従って危機を脱したことさえある。

私の諸々の論を愛読いただき、
特にエッセイ集「不まじめな神々」には、
きわめて感動され、
延々便せん10枚の感想をいただいた。

それながらさりながら今になって、
ペラペラペラペラと恩知らずなことばかり、
何をほざくかと、さぞやあの世でお怒りと思うが、
しかし私たち、嵯峨氏と私は、
こういう形でせっせと往来して来たのである。

それが嵯峨氏と私との形であった。
嵯峨氏も親友阿賀猥に再会、
怒りながらも満足のはずである。



posted by あがわい at 23:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎4

ところでお手て手洗って嵯峨信之、
さて何が残ったのか?

「嘘」である。

人格者という「嘘」、
それだけが残ったのだ。
以下は最後の絶筆「小詩無辺」の冒頭を飾る一遍。





井戸端に咲き乱れている山吹の花に
太陽が火を放つ
だれの嘘よりも
もっと見事な黄金色の大きな嘘のように




医学でも科学でも嘘は禁物である。
何より真実事実を優先する、
そうでなければ患者は死んでしまうし、
工場は爆発してしまう。
嘘は厳禁中の厳禁である。

だが嵯峨信之は違う、
詩は嘘、嘘でいいとしておられた。
いや、詩こそは嘘を書くべき、と
しておられたのではないか?

キンキラキンの輝く太陽のような
大嘘を作って真実を隠してしまえと、
そう書いておられるではないか!?
この他にもう1つ「嘘」に触れた詩がある



嘘の傘

どこまでいっても1つの言葉にたどりつけない
言葉は人間からはなれたがる

水のような
こうもりの翼のような言葉は
魂いにさしかけている嘘の傘ではないか




「嘘」を書いた二つめの詩。
小さな詩集の中に2つもの「嘘」である。
これほど嘘に固執した詩人はいないのではないか?
これほどまじめに「嘘」に人生を
賭けた男もいないのではないか?

氏はひたすら「嘘」を書かれたのか。
そのひたすらの嘘で、自身のか弱い
「魂い」を守ろうとされたのだろうか。

氏はその詩の静謐と清明で
大量の読者を持つ大家である、
延々と詩誌「詩学」を発行、
戦後日本詩壇を牽引してきた方である。

多くの詩人が直接間接に
嵯峨詩編の傘のなかで詩を書いている。
つまり「嘘」をその内部に隠し持つ。

なるほど見事な詩編が多い。
嵯峨氏のように人格者風で、
しかも嵯峨氏のように
誰彼に嫌われないよう、用心深い詩が多い。

私に言わせれば、これはひたすらの嘘。
ただの嘘、嘘だらけである。
もし嘘でなければ、どうなるのか?
こと、詩の世界では、たちまち失格となる。
つまりこの世界、嘘でないものは、失格するのである。



posted by あがわい at 22:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎3

さて、問題は嵯峨詩篇のひたすら誠実、
しずやかなる温順である、
どこでこの「悪」、つまりは「平和の悪」に繋がるのか。
どこで反軍部、無頼の日々につながるのか?

嵯峨氏と新宿、横断歩道を渡っている、
ちょうど中程で、その話になった。

「まあ、3回も奥さんをとっ替えるなんて放蕩、
 私の親戚には一人もおりませんよ。
 私のような真面目一方の人間を前に、
 よくもまあヌケヌケと大きな顔をさらせますね」

と言ったのに反発、真っ赤になって
なにやら叫ばれ唸り出されて、
場所が場所だけに車の行列、
とんでもないことになってしまった。

離婚はそうそう簡単には行かないはずだ。
「ああそうですか、ではあなた出て行きますか。
 引っ越しはヤマト便にしますか、それともアリさんマーク?」
とかこう手早くは進まない。

「このやろう。バカやろう」
「何を、このスケベジジイ」と皿投げたり、
茶碗、割ったり……の一悶着二悶着があったはず。
なぜ、嵯峨詩編にはそれが登場しないのか?


『詩と思想』の討論で
東映社長岡田裕介を招いて、
嵯峨氏と中本道代氏など女性詩人とで、
映画のあれこれを喋り合ったことがある。
一心不乱、ガンガンに喋りまくったのは嵯峨氏。

嵯峨氏の話はマーロン・ブランドの背徳映画、
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」、それ一本。
よほど気に入られたのだろう。こればっか。

若い娘と年寄り男の性愛専科。
二人しか出てこない。
一切悩まず、ひたすら背徳専科、性愛オンリー。
他はゼロ。ベルトリッチ監督の異色作品だ。

一切悩まず……というあたりは、まさに谷崎流。
そうか、久方ぶりに谷崎兄貴に再会されたんだな
と思ったのだが、結局はこれで盛り上がって、
討論は背徳一色、楽しくにぎやかに終了した。

ところが、である。
いよいよ編集完了、
雑誌出来上がりで、開けてみて驚いた。
すっかり背徳が抜けていたのだ。

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の
「ラ」の字一つ出て来ないのだ。
討論掲載というのいったん逐一抜かさず記録したものを、
発言者がそれぞれに点検補正するのだが、
嵯峨信之氏、自身の発言から背徳関連の
一切を抜いてしまったのだ。

つまり発言のあらかた抜いてしまったのだ。
となると、会話の相手の方の発言も、
全部カット抹殺されてしまう。
誠に迷惑な話なのだ。

かくて皆してお手て洗って行儀良く……となったわけだが、
小学生ならともかく、
妙齢の大人がこれをやって見良いものではない。
バカバカしいまでの腑抜け紙面に驚いてしまった。
まことに人格者とは困ったもの、と
つくづく思い知った一幕であった。





posted by あがわい at 22:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎2

95歳、死の直前まで詩人としても
また詩集出版社「詩学」の
経営者としても辣腕を揮った方、
様々な逸話が沢山の方々に語られているが、
今回は誰にも語られていない、
自身も決して漏らされることのなかった
氏の女性遍歴の1コマを、書いておきたい。

というのも
あまりにたびたびその話をされたからだ。
書き残して欲しいということでもあったのではないか?
放校処分を受けて氏は上京され、
芝の高輪高等学校に転入されたが、ここも中退。
21歳で当時は発足間もない文藝春秋社に入社、
菊池寛に従って若手作家の育成に驀進された。

「これからは宣伝の時代だ。
 ガンガン写真をとって
 まずお前たちを有名にしたい」
 
菊池寛が、ある日、集まった新進作家たちの前に、
カメラマンを引き連れてきて、こうのたまうと、
芥川竜之介が興奮、突然下駄のままで
近くの松の木に、駆け上って
「さあ、撮れ、今、俺をとれ!」と叫んだ………。

菊池寛と打って一丸となって進んだ
当時の勇ましい文人たちの話も面白いが、
なんといっても傑作は嵯峨氏の兄貴分、谷崎潤一郎。
谷崎とのなんとも不可解、
奇妙かつ驚くべき背徳話も披露しておきたい。


時は大東亜戦争ただ一色。
皆マジメに銃後の守りに専心していた頃の話。
谷崎とその一派は、マジメになるどころか、
夜の町に繰り出し、まさに無頼の集団として、
フマジメに精出していたのはつとに名高いが、
その仲間の一人が嵯峨信之氏。
夜な夜なのある一夜、彼に潤一郎が頼み込んだ。

「もう何日も家に帰っていない。
 今日も帰れない、かわりに君、
 俺の家に行ってきてくれないか?
 当人には前々から言ってあるので、大丈夫だ」

深夜、嵯峨信之、
何はともあれ、谷崎家にはいると
お膳に夕飯も置いて、箸まで添えてある。

ひとます食事を終えて、さてどこに寝るのか?
と隣室を開けると、蚊帳が一つ吊ってあって、
さあ、寝て下さいとばかりに、布団も敷いてある。

で、これ幸いに寝入った……となりそうだが、
そうは簡単ではなかった。

蚊帳の中には、もう一組の布団があり、
夫人が眠っておられたのだ。
「これはいったいどういうことなのか?」
おまえの嫁にどうか、とうことなのか、
蚊帳の前で座り込んでしまった……。


それからどうなった?と
聞いて欲しいのかとも思ったが、
そうはさせじと何故か、私は知らんぷり。
その続きは知らないのだが、
道徳無視、良識常識は足下に蹴落とす
傲岸不遜の文人谷崎潤一郎の真骨頂、ここにあり、
と私は谷崎の方にいたく感心した。

目下は、世をあげて平和主義、
再軍備反対、軍人真っ平であるが、
なんだかんだとはいえ軍人は我が命を捨てても
国を守る正義の固まりである。
それを義務づけられている。
人に好かれないはずがない。

2・26事件にしろ、映画となると、
軍人側つまり若手将校たちは皆りりしく美形。
まさに善玉のカタマリとして描かれる。
逆に殺される側は年寄り。
それもいかにもパッとしない、
ちと悪っぽい俳優が登場する。
どう見ても悪玉である。

当時の平和主義、つまり谷崎、嵯峨らの反軍メンバー、
自由主義者たちはもこうだったのではないか?

軍人の逆。
ガリガリの強欲、反道徳、乱脈の性、家族崩壊……
悪しきことのモロモロとされていたのではなかったか?

平和は難しい。
じきにこうなってしまうが、おそらくは当時も同じ。
平和の言葉は良さげだが、中身はナカナカである。
突き進むと腐敗へと悪へと繋がってしまう。




posted by あがわい at 22:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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