2017年08月21日

8月21日・フレッツ光

ドコモ回線でフレッツ光。
開通して2週間はスイスイ、コレは便利とおもっていたら、
漸次たらたら遅くなり、今日はアマゾン買物途中で動かなくなった。
開通40日でフレッツはダウン。
で、タクシーで、コメリまで¥5000でドッグフード。
アマゾンと同じもの3カ月分買った。

ここは群馬県嬬恋村、北軽井沢地帯。
突然、ワイモバイルが圏外になったり……
異様なことが多い。
   
ともかくアマゾンで買えないので、あちこち買物に出かける。
高崎とか前橋とか、いい町だ。
PCに閉じこもるって、かなり退化してたことがわかる。
でもレストランは駄目、味はイマイチ。 

ともかくフレッツ光は電源からカットした。
群馬県に来てまだ2カ月、群馬の方、教えて下さい。
これがドコモ回線の普通なのかな?


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2017年07月30日

瀬崎祐 評 ◆ 魚野真美詩集『天牛蟲』

『魚野真美詩集 天牛蟲』表紙.jpg
魚野真美詩集『天牛蟲』
瀬崎祐さまからご感想をいただきました。

この束縛から無縁であるような世界の広がり方はどうだろう。
どうせ書くなら、こうやって解放されなくては意味がないだろ、と言われているような気分になってくる。

ときに意地悪く、また無責任に、
どこまでも自由な言葉たちは新しい世界を形づくる。

全文は「瀬崎祐の本棚」にて公開されています。
ぜひご覧になってください。

瀬崎さま、誠にありがとうございました!


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2017年06月17日

5・31「詩の虚言朗読会・最終回」

「詩の虚言朗読会」は
主宰者、山岡遊が故郷の高知への帰還のため最終回となった。

会場は、埼玉県与野市と遠隔地ながら
毎回沢山の入場者を集め、
山岡氏らしい独特の構成で盛り上がった。
終演を惜しむ人も多い。

まず山岡氏の提案で集まったのが
杉本真維子さんと私の3名。

新宿駅近くのやたら賑わう小さな店で
マッコリを飲みながら山岡氏の怪気炎を眺めた。

山岡氏は、加藤温子さんの紹介。
どういう事件だったのか、詳しくは忘れてしまったのだけれど、
山岡氏が清水旭と大喧嘩、
ついては貴女の所にも山岡非難の声が届くだろうが、彼は正しい。
ついでに言えば、彼はいつも正しい、絶対に正しい……

という極めて長い電話であった。

高円寺界隈の自転車置き場で二人は喧嘩したらしい。
清水氏はチョコチョコ悪事をやる人で、
実は私も便乗したこともある悪事好き。
ただ清水氏は逃げ足が遅い。
悪事がたちまち露見してアタフタ、逃げずに逃げられず……であった。
私も助ければいいものをそれはせず……
苦労する清水氏を遠望して、ま、喜ぶといったタチの悪さであった。

さて最終回、
イガイガボンからの出し物は「大菩薩峠」。
従来、机竜之介は
長身痩躯も頑健男、十亀脩之介が演じていたが
十亀氏が海外公演のため、渡辺剛己氏に来ていただいた。

最終回・虚言朗読会_001.jpg

渡辺氏は写真のとおり、ずんぐりむっくりで、
いかにも不似合いと不安であったのが、予想外の圧倒的な名演で驚いた。

音響を最大限にアップ。
徹底的に過激に踊りまくって唖然。
独自に詩編を解釈したわけで、こういう解釈もあったのか、と驚いた。

元々は中本道代さんの「大菩薩峠考」という評論が起点での詩編。
自作ながらこの詩編を私自身は理解できていなかったわけで、
最初の初演の時に中本道代さんから注意を受けたもの。

最終回・虚言朗読会_002.jpg

希代の不死身の殺人鬼、机竜之介の事、
いくらでも切り口はあるのだろうが、
結局はこれは過激な愛の詩編、
竜之介の「愛」を抽出したものだったのではなかったか?と
遅ればせながら気づかされた。渡辺氏のおかげである。

最終回・虚言朗読会_003.jpg

渡辺氏は元々は舞踏家というよりは役者。
万有引力の舞台監督も経験というので、
ひょっとして寺山修司的な解釈だったのだろうか?

次に上演した「変形型天虫恋模様」
これは恋愛痴情殺傷事件。

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作詩は「大菩薩峠」と同時期。
こちらは強力な、いわば八百屋お七タイプの女性を
舞踏家、安田理恵氏に熱演していただいた。

双方ともが、一切の観念、理念、イデオロギー抜きの
猥雑な江戸時代後半が舞台に
ひたすら「愛」また「生命」の核へと驀進する世界なわけで、
なぜとなく大菩薩峠作者、中里介山をかいま見たような気がした。

最後は同じく中里介山「大菩薩峠」ファンの井川博年氏の賞賛をいただいて幕。

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山岡氏の年間の朗読会の熱誠を称えて、ここに熱く感謝したい。

最終回・虚言朗読会_000.jpg

なお、
現在、山岡遊氏は下記住所に居住。
元気に張り切っているようだ。

最終回・虚言朗読会_006.png



posted by あがわい at 09:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎5

「現代詩」は難解と言われる。
よほどに感性の研ぎ澄まされた人、
あるいは学殖豊かなし知性がなければ
読み解けなくなってしまった。

また、そういう詩でなければ、
良い詩、優れた詩とは見なされなくなってしまった。
でもこれはひょっとして「嘘」のせいではないか?
「難解」は嵯峨信之に言う「嘘の傘」ではないか?

真実の自分、実際の自分は、
なんとも無様な生き物、
情けない魂いしか持たないもの、
人前に出せたものではない。

それを隠蔽しようとして、
そういう自身を守ろうとして、
幾重にも嘘を塗り固めて……
こうして、いつか事実からは離れ、
事実からもほど遠くなり、
かくして元々の中身がなんだったのか
分からなくなってしまった、
解きがたい難解なものになってしまった。
……こういうナリユキではなかったのか?


文学の目的として、
真実追求のため、
あるいは本当の自分を探すため文学をする、
こう言う人が多い。
だが本当の自分など、誰だって知っているもの、
知らないはずがない。
真実も同じ、よくよく知っているのだ。

何とも無能でしょうもない自分を、
いまさら探してどうなるものでもない。
八方塞がり、どうみても未来の閉ざされたままに、
真実を追求したところで、今更運命が開けるはずがない。

自身とは異質の「嘘」の自分を
つくりだそうというのではないか?
あるいは事実とは違う嘘の現実を
新たに作り出そうとしいているのではないか?

そこで輝かしく、
あるいは美しく健やかに、
羽ばたこうというのではないか?

このように嘘は重宝なものである。
日常に便宜と幸福をも呼び込んだりもする。
こうしていつの間にか嘘は膨張し、
拡大して、知らぬ間に私たちの多くにしみ入って、
嘘が多勢を占めるようになってしまったりする。

多勢の「嘘」は、ひたすら自身を膨張、
そうでないもの、嘘ではないものを、
大手を振って見下して、
追い詰め、排除してていく……

たまの嘘はいい。
だが、嘘が真実、事実を
排撃するまでに強力となると、どうなるのか?

これは厄介だ。
どう見ても見良いものではない。
いい歳こいで今更お手て洗っても、
さんざ汚れてしまったお手ては奇麗にはなれない。
ド汚い手を振りかざしてチンとお澄まし、
きれいごとを言うなんて、笑いものにしかなれないだろう。

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人格者

私は人格者というものを信じない。
そういう性向は元々人という
種族にはあり得ないものである。
「人格者」とは、非科学的、無知蒙昧、
鈍感が生み出した恥知らずの妄想でしかないだろう。

私たちは皆、あの悪賢く小汚い猿の末裔である。
この事実は動かない。真実は変えられない。
血も争えない。
一皮めくれば、すぐこのエテ公が首を出す。
嘘で隠しても無駄、
バカバカしい努力はすべきではないと思う。


嵯峨氏は私の恩師である。
特に私生活では要所要所、
かけがえのない忠告と指導をいただいてきた。
氏の忠告に従って危機を脱したことさえある。

私の諸々の論を愛読いただき、
特にエッセイ集「不まじめな神々」には、
きわめて感動され、
延々便せん10枚の感想をいただいた。

それながらさりながら今になって、
ペラペラペラペラと恩知らずなことばかり、
何をほざくかと、さぞやあの世でお怒りと思うが、
しかし私たち、嵯峨氏と私は、
こういう形でせっせと往来して来たのである。

それが嵯峨氏と私との形であった。
嵯峨氏も親友阿賀猥に再会、
怒りながらも満足のはずである。



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嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎4

ところでお手て手洗って嵯峨信之、
さて何が残ったのか?

「嘘」である。

人格者という「嘘」、
それだけが残ったのだ。
以下は最後の絶筆「小詩無辺」の冒頭を飾る一遍。





井戸端に咲き乱れている山吹の花に
太陽が火を放つ
だれの嘘よりも
もっと見事な黄金色の大きな嘘のように




医学でも科学でも嘘は禁物である。
何より真実事実を優先する、
そうでなければ患者は死んでしまうし、
工場は爆発してしまう。
嘘は厳禁中の厳禁である。

だが嵯峨信之は違う、
詩は嘘、嘘でいいとしておられた。
いや、詩こそは嘘を書くべき、と
しておられたのではないか?

キンキラキンの輝く太陽のような
大嘘を作って真実を隠してしまえと、
そう書いておられるではないか!?
この他にもう1つ「嘘」に触れた詩がある



嘘の傘

どこまでいっても1つの言葉にたどりつけない
言葉は人間からはなれたがる

水のような
こうもりの翼のような言葉は
魂いにさしかけている嘘の傘ではないか




「嘘」を書いた二つめの詩。
小さな詩集の中に2つもの「嘘」である。
これほど嘘に固執した詩人はいないのではないか?
これほどまじめに「嘘」に人生を
賭けた男もいないのではないか?

氏はひたすら「嘘」を書かれたのか。
そのひたすらの嘘で、自身のか弱い
「魂い」を守ろうとされたのだろうか。

氏はその詩の静謐と清明で
大量の読者を持つ大家である、
延々と詩誌「詩学」を発行、
戦後日本詩壇を牽引してきた方である。

多くの詩人が直接間接に
嵯峨詩編の傘のなかで詩を書いている。
つまり「嘘」をその内部に隠し持つ。

なるほど見事な詩編が多い。
嵯峨氏のように人格者風で、
しかも嵯峨氏のように
誰彼に嫌われないよう、用心深い詩が多い。

私に言わせれば、これはひたすらの嘘。
ただの嘘、嘘だらけである。
もし嘘でなければ、どうなるのか?
こと、詩の世界では、たちまち失格となる。
つまりこの世界、嘘でないものは、失格するのである。



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嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎3

さて、問題は嵯峨詩篇のひたすら誠実、
しずやかなる温順である、
どこでこの「悪」、つまりは「平和の悪」に繋がるのか。
どこで反軍部、無頼の日々につながるのか?

嵯峨氏と新宿、横断歩道を渡っている、
ちょうど中程で、その話になった。

「まあ、3回も奥さんをとっ替えるなんて放蕩、
 私の親戚には一人もおりませんよ。
 私のような真面目一方の人間を前に、
 よくもまあヌケヌケと大きな顔をさらせますね」

と言ったのに反発、真っ赤になって
なにやら叫ばれ唸り出されて、
場所が場所だけに車の行列、
とんでもないことになってしまった。

離婚はそうそう簡単には行かないはずだ。
「ああそうですか、ではあなた出て行きますか。
 引っ越しはヤマト便にしますか、それともアリさんマーク?」
とかこう手早くは進まない。

「このやろう。バカやろう」
「何を、このスケベジジイ」と皿投げたり、
茶碗、割ったり……の一悶着二悶着があったはず。
なぜ、嵯峨詩編にはそれが登場しないのか?


『詩と思想』の討論で
東映社長岡田裕介を招いて、
嵯峨氏と中本道代氏など女性詩人とで、
映画のあれこれを喋り合ったことがある。
一心不乱、ガンガンに喋りまくったのは嵯峨氏。

嵯峨氏の話はマーロン・ブランドの背徳映画、
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」、それ一本。
よほど気に入られたのだろう。こればっか。

若い娘と年寄り男の性愛専科。
二人しか出てこない。
一切悩まず、ひたすら背徳専科、性愛オンリー。
他はゼロ。ベルトリッチ監督の異色作品だ。

一切悩まず……というあたりは、まさに谷崎流。
そうか、久方ぶりに谷崎兄貴に再会されたんだな
と思ったのだが、結局はこれで盛り上がって、
討論は背徳一色、楽しくにぎやかに終了した。

ところが、である。
いよいよ編集完了、
雑誌出来上がりで、開けてみて驚いた。
すっかり背徳が抜けていたのだ。

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の
「ラ」の字一つ出て来ないのだ。
討論掲載というのいったん逐一抜かさず記録したものを、
発言者がそれぞれに点検補正するのだが、
嵯峨信之氏、自身の発言から背徳関連の
一切を抜いてしまったのだ。

つまり発言のあらかた抜いてしまったのだ。
となると、会話の相手の方の発言も、
全部カット抹殺されてしまう。
誠に迷惑な話なのだ。

かくて皆してお手て洗って行儀良く……となったわけだが、
小学生ならともかく、
妙齢の大人がこれをやって見良いものではない。
バカバカしいまでの腑抜け紙面に驚いてしまった。
まことに人格者とは困ったもの、と
つくづく思い知った一幕であった。





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嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎2

95歳、死の直前まで詩人としても
また詩集出版社「詩学」の
経営者としても辣腕を揮った方、
様々な逸話が沢山の方々に語られているが、
今回は誰にも語られていない、
自身も決して漏らされることのなかった
氏の女性遍歴の1コマを、書いておきたい。

というのも
あまりにたびたびその話をされたからだ。
書き残して欲しいということでもあったのではないか?
放校処分を受けて氏は上京され、
芝の高輪高等学校に転入されたが、ここも中退。
21歳で当時は発足間もない文藝春秋社に入社、
菊池寛に従って若手作家の育成に驀進された。

「これからは宣伝の時代だ。
 ガンガン写真をとって
 まずお前たちを有名にしたい」
 
菊池寛が、ある日、集まった新進作家たちの前に、
カメラマンを引き連れてきて、こうのたまうと、
芥川竜之介が興奮、突然下駄のままで
近くの松の木に、駆け上って
「さあ、撮れ、今、俺をとれ!」と叫んだ………。

菊池寛と打って一丸となって進んだ
当時の勇ましい文人たちの話も面白いが、
なんといっても傑作は嵯峨氏の兄貴分、谷崎潤一郎。
谷崎とのなんとも不可解、
奇妙かつ驚くべき背徳話も披露しておきたい。


時は大東亜戦争ただ一色。
皆マジメに銃後の守りに専心していた頃の話。
谷崎とその一派は、マジメになるどころか、
夜の町に繰り出し、まさに無頼の集団として、
フマジメに精出していたのはつとに名高いが、
その仲間の一人が嵯峨信之氏。
夜な夜なのある一夜、彼に潤一郎が頼み込んだ。

「もう何日も家に帰っていない。
 今日も帰れない、かわりに君、
 俺の家に行ってきてくれないか?
 当人には前々から言ってあるので、大丈夫だ」

深夜、嵯峨信之、
何はともあれ、谷崎家にはいると
お膳に夕飯も置いて、箸まで添えてある。

ひとます食事を終えて、さてどこに寝るのか?
と隣室を開けると、蚊帳が一つ吊ってあって、
さあ、寝て下さいとばかりに、布団も敷いてある。

で、これ幸いに寝入った……となりそうだが、
そうは簡単ではなかった。

蚊帳の中には、もう一組の布団があり、
夫人が眠っておられたのだ。
「これはいったいどういうことなのか?」
おまえの嫁にどうか、とうことなのか、
蚊帳の前で座り込んでしまった……。


それからどうなった?と
聞いて欲しいのかとも思ったが、
そうはさせじと何故か、私は知らんぷり。
その続きは知らないのだが、
道徳無視、良識常識は足下に蹴落とす
傲岸不遜の文人谷崎潤一郎の真骨頂、ここにあり、
と私は谷崎の方にいたく感心した。

目下は、世をあげて平和主義、
再軍備反対、軍人真っ平であるが、
なんだかんだとはいえ軍人は我が命を捨てても
国を守る正義の固まりである。
それを義務づけられている。
人に好かれないはずがない。

2・26事件にしろ、映画となると、
軍人側つまり若手将校たちは皆りりしく美形。
まさに善玉のカタマリとして描かれる。
逆に殺される側は年寄り。
それもいかにもパッとしない、
ちと悪っぽい俳優が登場する。
どう見ても悪玉である。

当時の平和主義、つまり谷崎、嵯峨らの反軍メンバー、
自由主義者たちはもこうだったのではないか?

軍人の逆。
ガリガリの強欲、反道徳、乱脈の性、家族崩壊……
悪しきことのモロモロとされていたのではなかったか?

平和は難しい。
じきにこうなってしまうが、おそらくは当時も同じ。
平和の言葉は良さげだが、中身はナカナカである。
突き進むと腐敗へと悪へと繋がってしまう。




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2016年08月22日

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎1

編集部からもう1つ書けとの仰せ。
今回は、本校出身の先輩、
詩人・嵯峨信之氏を紹介したい。

本名は大草実。
1997年に95歳で死去された。
宮中時代、軍事教練の教官と衝突、放校処分。
卒業はされていないので、
卒業生名簿には記載されていないかと思われるが、
生粋の宮崎生まれ、宮崎育ち。
宮中つまり私たちの大宮高校に在籍された先輩である。
宮崎を舞台とした珠玉の詩集を数多く残されている。


私は40代で詩作を開始したが、
初めて訪ねたのが、当時
この嵯峨信之氏が新宿で
開いておられた「詩学セミナー」

それぞれが持ち寄った自作詩編を
嵯峨氏ほか3人の講師が批評をいうもので、
私はサンザクサされて不快この上もなかったが、
月謝が¥500だったか超安価であったので、
ぐっと我慢で通い続け、ついには
嵯峨氏とは昵懇の喧嘩友達となってしまった。

極めて高名かつ「人格者」の氏をいじめるとあって
私も悪い評判をとってしまったのだが、
意外にも様々の接点もみつかり、驚いた。

たとえば宮中時代の氏の親友、長峰敬七氏が
同級、長峰由佑氏の叔父に当たる方であったり……とかだ。



初恋         嵯峨信之

――好きよといって
ぼくの小さな肩にやさしく顔をしずめた
<女は十六才、ぼくは十五才だった>

その夜台風と大津波に襲われてなにもかも一瞬に消え失せてしまった
砂村の家も小さな恋も時のすべても

夜半三九度の発熱にひとり耐えている
湖の上を
水鳥の群れが音もなく舞い下りはげしく羽搏いて舞い上がったり
している
どこかへフルートの音が消えていく

ラジオのスイッチを切る
不眠のままいつしか外が明るくなっている
七十年――白い水脈のように時の一すじがつづく




これは嵯峨信之氏の
最後の詩集「小詩無辺」から。

15歳と16歳の嵐の一夜を活写、見事な詩編だろう。

結婚歴3回、
華やかな氏の女性遍歴の初陣を垣間見る1編でもある。
15歳だから、まだ宮中放校処分の前、
この彼女は宮崎の人か?
まさにセンダンは双葉よりカンバシと期待したいところだが、
その点では、ガックリくる。
女性遍歴を扱ったものは、これ以外はゼロなのだ。



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2016年05月20日

『谷絵 -谷敏行遺稿画集-』刊行。

お待たせしました。
『谷絵 -谷敏行遺稿画集-』刊行いたしました。


2011年準備開始、5年を経て完成。
書店ほか、アマゾン他、ネット書店で販売中です。
ぜひ、ご購入いただければ幸いです。

/////////////////////

この5年間は、まさに谷底を這い歩く毎日。
歩いても歩いても行き着くことが出来なかった。

問題は彼の絵もさることながら、
彼自身を把握出来ずにいた。

単純な男、簡単な画集になると踏んで出発。
しかし何度制作しても
谷敏行を掴めた実感が得られず中断、
途方に暮れていた。

単純に見えれば見えるほど、
内実は奥へ奥へ隠され、
見ることが出来なかった。

谷絵_複雑顔.jpg

これは画集未収録の谷絵。
モデルは誰かわからないが、
茫洋として掴みにくいところ、
おそらくこの辺りが谷敏行の実態ではないか?

次はごくごく単純顔。
実際の谷敏行はこれより丸顔、
ぽっちゃり顔だけれど、
日頃の表向きはこのタイプ。

叩いてもホコリも何も出てこないような
単純ペラペラ男という気がしていた。

谷絵_半分顔.jpg

ところがところが……
作曲も超奇天烈を絵画作成と同じく、
超スピーディ、長編舞台劇の背景音楽も
渋谷駅構内の小さなレストランでチョコチョコっとで完成。
何の支障もなく演奏可能で、
私も万事苦労なしの月日を過ごすことができた。

特に舞台俳優。
舞踏家 十亀脩之介と組んでの
「変形蟷螂型恋愛天虫色模様」
若旦那役はまさにハマり役で名演。

本人も何よりこれがご機嫌。
いよいよもうダメかとなると、
「しっかり治って、また若旦那役やるんだ」と耳元で叫ぶと、
急にしゃんとなって嬉しそうに頷いていた。

享年43歳、何とも残念な若死にである。
多芸多才、スサマジイまでの才能を
満載したままに死出の旅路についてしまった。

/////////////////////

彼を支えた、だめ連の皆さま。
自殺防止に彼の家の戸口を
たたき続けた職場の皆さま、ありがとうございました。

なんとか生の旅を終えることができました。




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2016年05月10日

醜悪な精神4「アドルフ、涙の主張」

SO WHAT 「アドルフの受難」.jpg

これは谷敏行の描くヒトラー像
「アドルフ、涙の主張」。
当社新刊、「谷絵」のなかのコラージュ作品。

ひたすら正義をこの世にあまねく
広めたいと必死のヒトラー像だが、
それというのも明恵様と同じ、
ただただ我が身は正義のカタマリ、
至純の人と信じこんでるいるゆえだろう。

そう信じたいならそれはそれでしょうがないとして、
その御姿となると、このあたりがピタリではないだろうか。

正義のひとの職務は悪漢退治。
バッタバッタと恐ろしい力で
悪漢を撃破しなければならないのだから、
たとえ自身では自覚しない場合でも
正義の方々はその裏側には
しっかりドカンとすざまじい攻撃力を
貯蔵しておられるはずで、
それ故の正義の主張のはず。

あまりに強力が過ぎて、
ついには辟易、逃げだす人々……と
正義感ヒトラーの凋落まで「谷絵」は書き込んでいるのだけれど、
ここまで来ると正義漢の真逆、
「悪人」も、案外な面もあるのではないか。

むしろ真逆の「悪」の方が、よかったり……なぞ、
フラチな思いが、ついフラフラと浮上したり……かくていよいよ、
法然の奇怪な論理、「悪人正機説」がお出ましとなるのである。




◆一言芳談

妄念をおこさずして往生せんと思わん人は
生まれつきの目鼻を取り捨てて
念仏申さんと思うがごとし
       (一言芳談)


法然の発言である。
強欲だの色欲だのの悪心、妄念を捨てて、
極楽往生を目指すというのは、
生まれつき持ってる自分の目や鼻カットして、
仕事に励むようなもの。
肝心なものがないからあまり効果はないんじゃないか?

こうつぶやかれたのだ。
奇怪といえば奇怪だけれど、
まことに鮮やか、見事なつぶやきではないか?

目や鼻は自分の中心部分。
妄念を法然は、そういうものとして
位置づけていたのである。

悪心邪心色欲強欲などなどの妄念、
これらは、人たる者の中心、
だから捨てることなどできない。
捨てた、というなら嘘である、
嘘からなにを生みだそうというのか?
こう疑惑されたのである。

今から700年前の東洋日本国に、
現代英国人リチャード・ドーキンスがタイム・ワープか?
恐るべき頭脳を想わざるを得ない。

千年万年、私たちは妄念を抱えて、
妄念のおかげで、生きてきた。
敵を攻略し、食い散らし……
かくして妄念遺伝子は脈々と生き続け……
これが生物の生き様である、
千年来、万年来の生き様を今更変えられない。
…………和洋折衷するとこうなる。

法然には著作は少ないが、
こいう発言の記録が沢山残されている。
おおむねかなり過激で面白い。

当時は仏僧は仏典の棒読みだけ。
その意味を噛み砕いて
解るように喋る僧はいなかったから、
よほど珍しかったのではないか?

人々は法然に集い、
その一言一句を書き付けては、
争ってその語録を読んでいたようで、
都大路を荷車引いてるばあさんが、
法然の言葉を書いた書き付けた紙切れを
道に落として右往左往探している記事も残っている。

問題は「正義のひと」である。

法然流でいうなら、
中心部分をすっぽり欠落させた人、
異様な欠陥人間ということになる。

無論、そんなおかしな人はいるはずがない、
お腹の中に、隠しているだけなのだ。
だが当人は気づかない。

なぜなら目がない、鼻がない、
……感知する器管をそぎ落として
しまっているから解らないのだ。

嘘つきではない、
明恵は、またヒトラーはわからなかったのだ。

一言芳談が、「生まれつきの目鼻」とした明察に
まずは、息を飲んでしまった。
感覚器官、
これを取り出したことにつくづくと感服してしまった。
(続く)




posted by あがわい at 22:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月18日

醜悪な精神3「美しい精神」

◆明恵とヒトラー

京都栂尾高山寺
恋につかれた女が一人、
大島つむぎにつづれ帯が
影を落とした石だたみ
京都とがのお、高山寺
恋につかれた女が一人、

これは、かってヒット曲。
永六輔作詞「女ひとり」
ゆったり長閑な曲、
うっとりいい気分でつい口ずさんでしまう、
明恵のゆえか?

高山寺は、高僧明恵の寺。
高徳のホマレ、高きにも高く、
高山寺自体も標高はけっこうあるのに
それでも足りないとして、いちいち
裏山の木の上に座ってる絵図が残っている。

明恵.jpg

時は鎌倉、
名君、北条泰時制定の貞永式目は
明恵の影響下に作成されたとされる。
政治理念にまで採用された倫理思想を生み出した人物、
権勢と並びなく、かつ心優しい人としても
様々も逸話が残されている。

仏様を「お父さん」と呼び、
タツノオトシゴだか、小さい虫だとかまでかわいがっていたとか、
親鸞のように「女」に走ることもなく、
せいぜい飴桶を抱えて飴をなめる程度であったらしい。
安全無害、これぞ聖人正に善人タイプ。
誰もが100%好きになるタイプではないだろうか?

ここまでの清廉潔癖となる日本にはなかなかいない。
ヨーロッパまで目を向けて、
近くは、議会で99%という脅威的なまでの
信頼をキャッチしたヒトラーくらいか?

幼き日は無論のこと学生時代も同じ、
下宿先ではあまりの生真面目に周辺を驚かせていた。
女性といえば、ただ一人、母上だけ、
乳ガン死の母上を慟哭、
あまりの激しさに、医師は奇異な印象をうけたほどだ。
(ここに知られざるヒトラーの秘密が隠されているのだが)

さて、話は東洋日本国、
この優しいこの明恵が
法然に牙を剥いたのである、
まさに阿修羅のごとく、狂ったように
法然を罵倒しまくったのだ。

汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重の人なり
『摧邪輪』

近代法滅の主、雅のこれ汝をもって張本となす
『摧邪輪荘厳記』

まず『摧邪輪』
翌年には『摧邪輪荘厳記』立て続けに2冊。
本タイトルは「サイジャリン」と読む。
「摧(ザイ)」が砕くという意味だから、邪悪を砕くという意味。

だがミイラ取りがミイラ、
むしろ書き手の明恵の邪悪がモロだしになってしまっている。

正に選択集の「内部と外相」である。
外側があまりに善良であるだけに、
明恵が内部に押し隠した諸々の邪悪、
攻撃心やら嫉妬やら、が凄まじいまでに極大化してして、
外側に暴発、法然に火となって噴出したかと思われる。



◆清浄心

法然罵倒が目的ながら、長々しい大冊、
それだけで埋まらないわけで、
法然拝む代わりにこれ拝めということか?
菩提心、これがポイント。

「浄らかな心もしくは煩悩にけがれていない心とは菩提心である」

摧邪輪で明恵はこう説明しているが、
清浄心とも言っている。
正義、良心の類か?

結局このあたりもヒトラーに通じていくわけで、
清廉だの正義あの、ひとりしっかり実践すればいいものを、
ヒトラーもまた、これがなにより大事と、がんがん演説、
大勢の人々を魅了してしまうのだ。

「普遍的正義」
これを正に力の限り喋りまくり、吠えまくり……
一時期にはドイツだけにとどまらず、
英国人やユダヤ人までファンは広がっていった。

正義の仕事は悪の征伐。
明恵の場合は「悪」は法然。
法然一人を攻撃すればよかったが、
ヒトラー場合は「悪」はユダヤ人。
ユダヤ人は数が多いので、大惨事となってしまった。

けれどそのもとは、正義、良心、清廉、清浄……なのだから、
ヒトラーを嫌うわけにはいかないのか、
どこまでもヒトラーを慕い続けて
どんづまり隠れ家の地下壕まで、
臣下は随行、恋人は共に自爆の道を歩んでしまう。
ヒトラー、ここまで真剣に愛された政治家はいないのではないか?

いったいナチ帝国とは何だったのか?
至純無垢な男が作った正義の国、
正確には、自分は至純無垢と確信する男、
作ろうとした理想の帝国ではなかったか?

そして思うのだが、ヒトラーと明恵、
双方、心のなかは正義だけ、
悪心はかけらも排除して生き続けた人、
行き続けたつもりの人ではなかったか。

そして思うに、だから思うに、
正義とは、また清浄とは
恐ろしいものはないのではないだろうか?
(続く)




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2016年03月31日

醜悪な精神2「リチャード・ドーキンス」

(前記事・醜悪な精神より続き)

とタラタラ続けてきて、ここに来てハタっと思い出したのが、
遺伝学者リチャード・ドーキンス先生。

ご存じ二重螺旋の発見者、
今世紀最大の発見を成し遂げたとされる人だが、
この人にあっては上記のようなタラタラは許されない。
このバカタレと怒鳴られだろう。
刹那だって?一瞬だって?
馬鹿抜かすな、ごまかすな、ってことになるだろう。

事は毎日毎日なのである、
毎日毎日、人たるもの醜悪で一貫しているとおっしゃるのだ。
つまり、あちら様は科学者、
古来より今まで、長々と、かつ、あちらもこちらも広範囲に広々と、
一貫して共通して流れるヒトたる者の定則を
取り出されて醜悪の精神をおっしゃるのだ。

頭のテッペンから足の爪の隅々まで、
細胞の1つ1つも例外なく、かつ話は遺伝子世界だから、
その寿命も億年万年を生きるミトコンドリアのレベル、
億年万年長々と悪の精神一本槍。
強きになびき、弱きをくじき、弱きをいじめ、
弱きを倒し、弱きを食って、弱きを食い散らして……
こうして生き残った悪のエリートというのだ。

ゲンジツはキビシイ。
生き残るにはこれしかなかった……
というとちょい惨めったらしい話にもなるのだけれど、
エリートと言うあたりはポイント、誉められている気もするから、
このあたりで、気をよくしてもいいかもしれないが、
この外にもう1つ、美貌との関連だ。

ドーキンス写真.jpg
ドーキンスの若き日の顔写真。
彼の発見はともかく、彼の論理のほうは当然ながら、
非難ゴウゴウ、あっちにもこっちにも嫌われたためか、
それこれあちこちに反駁文を書きまくり、
目下はパッとしない爺さん顔が出回っているが、
若き日を見るならまさにニュートン以来の美貌ではないか?

「真なるものは簡明だ」

昨今、大発展を遂げた物理学の世界。
学者たちは複雑怪奇な数式をあれやこれや書き連ねたあげくにある日、
奇妙に簡単な短い数式にぶち当たり、ふと漏らすのがこのセリフ。

これにもう1つ、発見者ドーキンスの美貌にあやかって加えてもいいのではないか?

「真なるものは美しきかな」

その正確かつくわしい理由は後回し、後でゆっくり考えるとして、
まずはドーキンスの美しきカンバセを心に留めておいていただきたい。

つまり、神尾和寿詩編、醜悪なる精神の
グラマラス軍団を美女集団と見たのは、1つにはここからだ。
「悪」が基本形。
基本を隠さずモロだしにする、簡明なるは、真。
真なるものは美しい。よって醜悪なる者は美しいのだ。
(これも変?変なるものは美しきかな?)


悪人正機説


イカレた事をいいだすのはその昔からイギリスのお家芸。
ヒト=醜悪なんぞ厄介かつ不快はたとえ真実そう思っていても普通は言わないもの。
英国人となると、それをまた臆面もなく大声上げて、世界に向けて喚き散らす。

ローリング・ストーンズやらセックス・ピストルやら、
悪玉系ロックアーチストの元気な方々を見るに
この奇妙な論理も英国専売特許かと思われるだろうが、これは違う。

その歴史的な古さから見ると、我がジャパン国。
なんと1300年代の鎌倉時代、法然と親鸞の悪人正機説。
この二人が、まずはガンガン喚き出したのだ。

奇妙な論理だから、実は逆説なり……とかややこしい解説をいう人も多いが、
なんせ単純明快、簡単安直をモットーとする法然と親鸞、
これはもう単純に、「悪人は正機」つまり「悪人は正しい」と解釈するしかないだろう。
つまり醜悪なる者は正しいのだ。

法然か親鸞か。
どちらが先にこれを唱えたか?
いままでは親鸞の説と見られていたが、
より古い法然の関連文書が出てきたため、最近は法然の説が有力。
私から見ると、これは資料あるなし関係なしに法然。
親鸞は師の説はちとおかしいとたとえ思っても、
ひたすら正しいと盲信して、師の説を広めんとして、喋っていたかと思われる。

なぜかそう言うのか?
悪人の方が善人よりただしい理由を親鸞はカケラも書いていないからだ。

親鸞は晩年にあっと驚く大冊、教行信証を執筆。
これだけあれば何処かにはあるだろうと
しつこい私は目をサラにして探したが見つからない。

親鸞は書きたくとも書けなかった。
実は親鸞、その理由がわからなかったのではないか?
なぜ善人より、悪人の方が正しいのか、分からなかったのではないか?

かたや法然、
抜群の頭脳とされながら著書はわずか。
そのわずかの中の1冊選択集にスバリ、その理由を書いている。

謂はく外相と内心の不調の意なり。
即ちこれ外は智、内は愚なり。
善とは悪に対するに辞なり。
謂はく外はこれ善、内は即ち悪なり
(前掲『選択本願念仏宗』)


私たちの内心と外面は違う。
同じには動かない。
外見が知恵者のように見える人は、その中身は愚かであったり逆に動く。

善と悪はただ単純に相対する言葉にすぎないもの。
(それぞれに固有の実体を持つものではない。
 元は一つのもの。1つのものがこの相対する2つの性格を同時に持っている)

だから外側に善がでている時は、
内側つまり心の内部にはその逆の悪が出る。
つまり善人と見える人の内部はドロドロの悪で満ちている。
悪人はこの逆。
内部には「善」が詰まっている。
外見はどうあろうと内心は美しき人なのだ。

カッコ内は私(阿賀)の補足、
やや詳しく口語訳を試みたが、ここで、さてどちらのタイプがいいのか?である。
悪モロだしと悪の隠蔽と、どちらの方が正しいか?
法然は前者、悪人を選択するのである。
悪モロだしの悪人の方がいい。
悪人の方が正機である……こう断定したのだ。

以上、
一種、深層心理学である。
目下はフロイト、ユングが席巻。
外部に吐き出された言葉を信じる者はいない。
言葉の世界、モロモロの哲学論理もすっかり意気消沈、ロゴス殿は地に落ちてしまった。

言葉ではなく、その裏を探る。
問題は内部。言葉はその内部を探るヒントでしかない。
これが現代。つまり法然セリフでいうなら、外相ではなく、内心。
内心を注目する。
はるか昔、心理学もない700年も昔の親鸞が解読できなかったのも無理はない。

しかし法然は別、
法然だけは悪人正機の理由を明快に記述、
ついては神尾詩編に登場の醜悪精神モロだしグラマラス女性軍団を
美貌の理由をも鮮やかに明示するのだ。

「醜悪なるものは正しい。正しいものは美しい」

法然の選択集は出版されたのはずっと後になるが、
それまでは高弟にだけ配布、門外不出となっていたもの。
何事もお見通しの法然は出版したらどうなるか、
それをしっかり予見されていたわけで、
出版されるやいなや非難ゴウゴウ、
あちこちから総スカンを食ってしまった。
その一番は明恵。



posted by あがわい at 21:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

醜悪な精神

健全な精神というのはよく聞く言葉だが、
醜悪な精神というのはきいたことがない。
空飛ぶキリン社刊『ガーネット』78号の、神尾和寿詩篇の2編は、
そのあまりなじみのない精神を書いて出色。


夜のお店で考えてみる

はち切れそうな肉体に
醜悪な精神が宿っている
そのようなくみあわせのいきものたちに
囲まれて、
さっきから息をだしいれしている私とは
誰なのか
オッパイが弾丸のように躍動しながら
容赦なく迫ってくる
その間に挟まれた頭を
ひねりながら
もう一度よーく考えてみる



状況は簡単ではないらしい。
官能的なようで見えて、イヤ、まて、
頭をひねって考えなきゃいけない、となると
早々いい気分にはなれないものの、けれど
「醜悪な精神」というのはいい。
そして「はちきれそうな肉体」!
もうこれは何よりだ。

グラマラスな女性軍団で、悪知恵満載というなら、
それはもう特上美人に決まってる。
そういう美女軍団に頭を挟まれる……
なんてどういう事情であれ、滅多にない果報者ではないか。

まずは醜悪な精神がポイント
グラマラスでも善良な精神となるとこうはいかない。
その手の女もおおむねは腑抜けで阿呆。
ドロンとしてだらけたのが多い。

普通、詩に登場するのは、こっち、善男善女。
皆して腑抜けでドロンとだらけている。
こういう人間ばかり見てるとこっちまでドロロン、ドロロンしてきて健康上にも良くない。
神尾詩編は詩が生気をキャッチ、
ぱっちり目覚めた瞬間を活写している。
これが見事だ。健康にもいい。
そしてもう1編。


フライパン

みんなに隠してきたぼくの
裸をきみにだけは見てほしい
ぱっと
脱いだ
ポーズを決めたあとで
(後略)


これもビックリ、ハテ何事か?と目が点になる。
フランス映画ではなかったか?
……整備された広々の公園、
口髭紳士がやおらコートを脱ぐと、中は素っ裸、
それを小さな子供達が黙って眺めている……こういうシーンがあったような気がする。
漫画だったかな?

どこにでもあることなのか、
千葉県は市川市、かっての我が家の近所でも類似のことがあり、話題をさらった。
頭は七三に分けて黒縁メガネ、それはそれは真面目な息子さんなのだが、
ある昼下がり近所界隈を次々訪問、
玄関先で、パラリと全裸となられて、「見て、見て」と秘めたる部分を、提示されたのだ。

奥様方はびっくり仰天、
キャアキャアまさにキャアッキャア、
辺り一帯は大騒ぎ、常日頃は眠ったような界隈がやたら活気づいた事があった。

三島由紀夫みたいに日頃ボデイビルで鍛えあげた身体ならいいが、
この詩編の主人公はその肉体を長年秘めてきたそうだから、
おそらくは脂身タップリの真っ白けでブヨブヨのはず、見よいものではあるまい。

プヨプヨおじさん.jpg
(その想像図として上にかかげたのは、私がハンドバッグに隠し持つカード入れの表紙。
 渋谷の雑貨店宇宙百貨で¥350で買ったものだが、このくらいの脂身か?)

美的とはなかなか言いにくいが
長年秘めて来たのだから、何らかの価値があるのだ。
彼一番の宝物だったり?
僕の宝は彼女の宝と、一人思い込んで、おそらは長年の憧れの君、
素敵な彼女に開陳なんて!なんとも健げでイジラシイではないか!

双方とも毎日毎日、それで一貫しているわけではない。
女性軍団だって毎日醜悪ではくたびれる。
全裸志望も同じ、
今日のような暖かな日ならともかく、
酷寒の日なんぞは、思いも寄らぬこと。

だが、ある一瞬の思い、刹那の衝動だからといって、
そうでないものより、価値なしとしてはいけない。
毎日毎日の長々ダラダラ思いより無価値とは、限らない。
それは我が身を活性化させるだけではない、
思いがけないものだってもたらしてくれる。

おなじみ世界の大富豪、ロスチャイルド氏は言う。
「肝腎なのは空中を舞っているもの、
 見えるか見えないかの小さな粒子だ、それを掴まえること。そこに全てがある」
氏のいうことだから話は金儲け。
金儲けの粒子のことか?

そういうものは、そこらに暢気に転がってるものではない、
よくよく注意して、刹那をキャッチしなければならない。
刹那の思いの方が、瞬時の衝動のほうが、より大事というのだ。
作者は古来より商人のまち神戸の詩人、神尾和寿氏。
皆で神尾氏を見習って大富豪を目指そう!(ちょっと変かな?)


リチャード・ドーキンス

とタラタラ続けてきて、ここに来てハタと思い出したのが、
遺伝学者リチャード・ドーキンス先生。

ご存じ二重螺旋の発見者、
今世紀最大の発見を成し遂げたとされる御方だが、
この人にあっては上記のようなタラタラは許されない。
このバカタレと怒鳴られだろう。

刹那だって?一瞬だって?
馬鹿抜かすな、ごまかすな、ってことになるだろう。
事は毎日毎日なのである。
毎日毎日、人たるもの醜悪で一貫しているとおっしゃるのだ。


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2015年12月24日

相沢正一郎詩集『風の木』



風が、五十七ページ目に漆の白い葉裏をまくりあげ、
五十七ページ目にたんぽぽの綿毛を飛ばし、
六十ページ目にこがね虫を振り落とそうとリラの木をゆする。
九十三ページ目の麦畑の上をやさしく吹く風が、そっと
本からぬけだすと、くつを脱いで窓から忍び込む。
……レースのカーテンを泳がせながら部屋から部屋へ、
あなたの名前を呼びながら薄目をあけてあるきまわる。
やがて、風はひとさしゆびをなめてテーブルの上の本をめくる。
……さがしてる――あなたが何ページ目に隠れているのか。

(『風の木』4ページから)


これは相沢正一郎さんの新しい詩集『風の木』から。
『風の木』相沢正一郎.jpg
「――<枕草子>のための30のエスキス」という副題がついている。

なんて素敵な詩集だろう。
清少納言がこんな風に化けるなんて!

あさましきもの。むとくなるもの。
おぼつかなきもの。たとしえなきもの。
めでたきもの。くちおしきもの……

(『風の木』92ページから)


などなど、が、キラキラ輝いて1000年ぶりに蘇ったのですね、相沢さんの庭に。

でも私の庭はとても寒いです。
素敵ではなく。今日は特に冷え込んでいます。
大事な私の芹畑を車が荒らし回って
泥の轍を作り、庭ははドロドロ、怒っているようです。

だから春の庭、相沢さんの庭を思います。
相沢さんの庭では
一足お先にほんわりほっかり小さな春たちが、笑って待っているからです。

草は、ははこぐさ、ほとけのざ、いぬのふぐり、
からすのえんどう、きつねのぼたん、
……かきあつめた草の名のなつかしいにおい、
はっぱで指をきったいたみ、草のうえに
すわってほおばったおにぎり、くちにくわえて
ふいた草ぶえ……うまごやし、ねこじゃらし、
すかんぽ、ふきのとう、たんぽぽ。

(『風の木』66ページから)


小さな柔らかい春の草花のなかで、
これから私も一眠りいたします。



『風の木』相沢正一郎.jpg
『風の木』――<枕草子>のための30のエスキス
相沢正一郎 著
書肆山田 刊 定価:2,400円+税









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2015年12月04日

朗読舞踏『ベンケイガニ』公演

11月29日、埼玉与野市。
山岡遊主宰、詩の虚言朗読会『夢の罠』。
イガイガグループは総勢5名で参加。
舞踏朗読「ベンケイガニ」以下3詩編を公演、喝采を博した。

2015-11詩の虚言朗読会_001.jpg

とはいえ詩編自体はよく見ると、かなり厄介な内容。
全部で20分もの長編。
ただし詩の制作時間は数分。
初めは意味がよく解らなかったが、踊ることで見えてきたものがある。

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発端は、その昔に見たカニの生態を追ったTVの科学番組。
夜中、家々のどこからかカニが1匹2匹と這いだして、
通りを軍隊のように列をなして移動していく……
みんなで街路を行進して浜辺にワンサカと集まるのだ……

それからどうなったか?
はるか昔の記憶で、内容は覚えていない。
果たして元の家にカニたち戻れたのか。
または、そのまま海の底に突き進んで行ったのか。
その昔、四国は壇ノ浦に沈んだ平家の人たちのようにである。

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栄養栄華、楽しく豊かに暮らしていても、その先はどうなるか解らない。
カニの場合は、潮の満ち引きで動く、つまりはお月様に支配されている……という説がある。
民主主義と平和を掲げて、愉快に楽しく暮らしていてもそれこそは「夢の罠」
ひょっとして、私たちもお月様、または、もっと遠い星の意向で、動かされていたりはしないだろうか?




ベンケイガニ
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セッセと努力、富国強兵となっていった戦前の日本人ないしは、
いっそうの繁栄を求めて原発建設、
世界にも原発輸出して意気盛んな近未来を想定しての背景。
そこへ敵機襲来。
原発にミサイル命中して原発爆発、
国土は火炎地獄となって皆死に絶える……



幽霊蟹
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原発爆発で死に絶えた蟹たちだが漸次幽霊蟹となって動き始める。
もう死んでいるのだから、文句も言わない。
戦勝国に言われるまま、「平和と民主主義」の衣を着せられて、
命ぜられた通りに「平和」と「民主主義」を踊り始める。
どこか空疎な「平和踊り」。
どこか画一的「民主主義踊り」を踊る幽霊蟹たち。



原発ヤクザ
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ベンケイガニ集団が変身した深紅の生命体。
幽霊ガニ集団が変身した漆黒の生命体。
……ともに原発ヤクザとして2匹で踊り始める。
天空を悠々と滑空し、蟹集団の「生」と「死」の双方を称えて舞い踊る。










今回の朗読舞踏、
概要を書き連ねて、ふと、私たちを背後で支配するものを思った。
蟹たちを支配する「月」、
それに呼応して動く何かが蟹たちの体内に埋め混まれているはず……
私たちもなにか、埋め込まれているのではないか?

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口先では、戦争反対を叫ぶが、
かって日清戦争日露戦争と勝ち進み、狂喜乱舞した私たち日本人。
勝利の快感を求めて動いていたりはしないか?
フロイト論文の中では短く目立たないが「快感原則」を思った。

これは元々、ロシア出身の美貌の女性心理学者、
ザピーネ、シュピールラインの書き起こした「死への欲動」。
ここからの盗作とフロイトは非難されたりもするが、
ザピーネの原稿は、本家本元だけに微に入り細に入り詳しく展開している。
たとえばワーグナーの歌劇。
馬上のヒロインが、燃え盛る火の海へと、突進していく、
このくだりを挙げながらダイナミックに解説していく。

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私たちは日夜営々として繁栄を目指す、
あるいは勝利を目指す……だが実はそれは「死」への欲動。
「死」を目指して生きているのではないか?

舞台では、ウジウジョ、ロロジョロと朗読者はいうのだけれど
音楽のほうは、どくどくどくどくと英国ロック特有の
不気味なまでの強力な重低音を休ます鼓動させて進んでいく。
どうあっても決してやすまないのだ。
無限に私たちを突き動かしていく無限衝動をあらわしている。

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まさに命がけで繁栄を目指す安倍政権。
当初安倍氏は「美しい国」と言っていたがこれはなにか?
特攻隊もまた「美しい日本」のために突き進んだのではないか?
美の極点としての散華、ゼロを目指して、知らず知らず「死」を目指して居たりはしないのだろうか?

この大戦犠牲は、日本人犠牲者300万人、ユダヤ人犠牲者600万人だけではない。
他に総計1400万人が国土を失いさまよった果てに、力尽きて、命を落としている。

死を希求しない論理、美しくもない醜悪をも包容する
確固たる論理も必要ではないだろうか。
つまり美しさなどいらない、生きのびる論理が欲しい。








posted by あがわい at 23:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

鈴木芳子詩集『嘘のように』

この頃は誰かが横に寝に来る
結構大きな寝息だ
昨夜「相棒」を観ていたので
杉下右京かもしれない

なかなかの場面だ。
鈴木芳子詩集、『嘘のように』から。
詩編「晩夏」の冒頭である。

舞台は栃木県矢坂、
不可思議な世界が開かれていく。
以下は作者、鈴木芳子氏に送った私の礼状。

『嘘のように』拝見、ありがとうございます。
嘘のように、おもしろかったです。

杉下右京さんとお休みになってるなんて、羨ましいです。
私の母は、一貫して洋画ファン。
元旦の正夢で、ウイリアム・ホールデンとか、
ケーリー・グランドとか
アラン・ドロンと泳いでる夢を見たとか、自慢たらたらでした。
毎年違うのが、移り気な母らしくて、なんとなしガクっときてました。

皆様で秋の陽を浴びて、
嘘のように穏やかに、しずもうとされている……
なにかウットリしてしまいました。

私の夫は41才でガン末期を宣告され、
なんとか業苦の中を生き続け、53才で、亡くなりました。

「心配するな、俺は大丈夫だ、
 これでいいんだ。
 これで満足なんだ、看病ありがとう。」

最期にきて、笑い続け、大笑いのうちに亡くなりました。
鈴木ワールドの嘘のように静かなそして豊かな世界を知ることなく……
やはりかわいそうでなりません。

ちょっと似たタイトルの朗読会の案内も入れます。
なんでしたら、ここで朗読、飛び入りでされませんか?

2015朗読会「夢の罠」.jpg

10月19日


以上が私の手紙の全文。
以下は鈴木芳子詩集の最後に置かれた詩編「遭遇」

「遭遇」鈴木芳子.png

見事な詩編だ。
何も言うすべがないい。
なぜか、絶句、涙にくれてしまった。



posted by あがわい at 20:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月13日

セントバーナード

イガイガボン夏期は、標高1200m高原地帯に移転して制作する。
犬猫全員同伴。
近くに軽井沢オモチャ王国とホテル群。

犬たちはホテルの庭をめぐる小川で水浴、
ご機嫌だが、早々散歩に連れ出すわけには行かない。

休暇ではない。
ここは仕事をするために来た。
庭に金網を張り巡らして犬たちは放し飼い、
散歩の手間を省いているが、
この犬用の塀の門が、何回か開けっ放しの時があった。

1匹は大型犬セントバーナード。
体重70キロを越す。
そこらを歩いたら怖がるひとも少なくない、必ず施錠して寝る。
ただし、犬用の施錠、人間は簡単に開けられる。

ところが2、3回、開けっ放しのことがあった。
その後、犬は体調不全。
獣医と相談中にそれを思い出した。
門が開いていたことがある。
原因はこれではないか?
誰かが故意に開けはなち、毒物を?

だが、医師も、漫画家戸沢タマさんもこれは否定的。
「毒物混入では証拠が残る。
犬の事故死は器物損壊罪が適用、
警察が乗りだす、犯人はそういう厄介はしない、
病原菌、寄生虫の卵とか、べったり満載の食物を食べたのではないか?」


犬種はセントバーナード、性格は穏和かつ聡明、
だがやたら腹を空かせる大食が欠陥。
ところが、どういうわけか、門が開け放たれていた朝に限って、
朝食をせがまない。
この犬種にはあり得ないことだ。

ああ、早く朝ご飯、早く早く、
私は死にそうです……という必死の形相で迫ってくる。
ところが、門が開いていた日は違う、
呼ばないと出てこない、のろのろときて大欠伸……
戸沢説が正しいか?

やややや、DZ、つまりドラゴンZに関わりあったばかりに
作者の私にも、魔の手が……!!
まさに松尾芭蕉の虚実皮膜論。
これを一歩進んで、物語が現実を踏襲し始めた……?

『ヤクザみたいに綺麗ね』、
「やくざ」という言葉に拒否反応のひとも多かった。
私はその被害に遭ったことがないせいか、
取り立てての悪い思いはない。
どちらかというと「綺麗な人」との印象が強い。
幼き日を共に過ごしたチビヤクザ?
君の思いでのせいだろうか?

彼の話は、いずれ書きたい。

チビヤクザ「コウモリの安」、私達は家族だった。
父は息子以上に彼を愛していた。
彼を取り戻そうと悪戦苦闘した。
亡き父の思いを伝えたい。


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2015年09月08日

ドラゴンZ・DZ

発売中の『ヤクザみたいに綺麗ね』には沢山のお手紙をいただいた。

「こんなにも強烈な匂いを放つラブソングがかつてあっただろうか。」
これは、平居謙さんの感想。

ハッピーエンドに終わる、かなり強烈なラブロマンスだが
どこかしら危険の香り……スリラー小説でもある。

主人公はDZ(ディーズィー)、通称ドラゴンZ。
TVキー局に勤務、マスコミ最前線を突っ走るキャリアだからだ。
何はなくともこういう仕事はどこか危険がついて回る。

DZも同じ、終始何者かが追跡、
DZは隣家の藪に隠れて、あるいは全室消灯して、鍵穴から追跡者に見入る。
大規模、周到な追跡、簡単ではない。
背後に巨大な犯罪が隠されているのではないか?
大量の犠牲者、非業の死者、すざまじい卑劣、
それらいまわしいものが、隠されているのではないか?
命を惜しんでいる暇はない、大きなネタになる可能性があるのだ。

DZはなにを知っているのか?
DZはどこでなにを見たのか……?
すべて思い出すことができない、
自身のかこを辿ろうと、ある時はアメリカ、
ある時はチュニジアに飛ぶ……

一部は私の体験が混じる。
私のかっての勤務先はTV局。
所属は編成部。
制作部門と違って、同時に複数のドラマ、ショー番組、
報道番組を担当、広域を視野に入れて、手を打って行く。

自然に行動範囲も広域に広がり、簡単には過去を辿れない、
過去はたちどころに忘れる、忘れて動き回る。
過去を思い出せないのだ。

勤務当時、いくつか、不可解な事件に遭遇、
周辺で命を落とした者もいる。

取材当日、現れないので不審に思って自宅を訪問したら当人は変死……
これは他社の映画監督の失態。
そこまでして知る必要があったのだろうか?
犠牲者は出すべきではない。

敵は外国諜報機関。
妻子と別居、2週間ごとにホテルを変えて転々の人もいた。
辛くも生き延びて栄達?を極めたり……
ほとんどが知らぬ間に巻き込まれてしまったもの。
TVは娯楽提供が使命。
犯罪摘発は範囲外、
安全地帯を歩いてるはず……という油断が災厄を招いた。

目下の私は娯楽本を制作、
楽しければいい、という油断が災厄を招く?とも限らない。



posted by あがわい at 23:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月27日

パスカル「人間は考える葦である」

本当だろうか?人間が考えるか?
ただただ「仲良きこと」が好きなだけではないか?
人はただただ、隣の人を真似て、揺れているだけではないか?

特に葦をみるとそう思う。
風に煽られて左に右に整然とうっとりと揺れているのを見るとそう思ってしまう。

風にくねる葦原、葦は1本では生えない。
河原を湿地を、何千、何万と群になって、群生する。
群生して同じように動く、全く同じ形で揺れる。
人もまた葦のように揺れているだけ、考えないのではないだろうか?
芦原をみるとそう思ってしまう。

パスカルは1本の葦という。
で、その中から1本、引き抜いてみる……
いやまず不可能だ。
引き抜けないのだ。

いかにも弱そうな植物のイメージだが、葦は逆。
根が深い。
背丈2mなら根もまた2mかそれ以上はある、
それも垂直に下に延びているので、ガンとして引き抜けない。
だから強い、だから風に揺れることができる。

だがこんなにたくさんなのだから、
中にはガンとしてゆれない1本があるかもしれない。
いちいち逆向きに揺れる葦もあるかもしれない。

他よりはちと幅広で、かなりのろまで、揺れることができなかったり、
あるいはただ勝手放題の我が儘で……
ひねくれくねって揺れていたり……?

芦原のどこかに揺れることが嫌いな奥村真が、
バクーニンが、また和服姿の世之介が、
ムカっとした顔を細長〜〜〜い穂の先にチョコンとつけて、
揺れずにガンと立っているような気がして、ふっと芦原に見入ってしまった。
posted by あがわい at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月20日

奥村真とバクーニンと世之介

「仲良きことは、あさましきこと」
「仲良きことは、さもしきこと」


これは普通にいえる言葉ではない。
普通のひとでは言えない。

ぬらり神.png

ちょっと変わったことを言ってみたかっただけではないか?
思いつきで言っただけではないか?

違う。
まずは飲み屋の給仕がこういうのだけれど、この給仕、前世の世之介の時から言い続けているのである。
世之介は江戸時代の有名人、井原西鶴「好色一代男」のヒーロー。
前世の代から江戸の頃から言うのだから、脈々と時を越え時代を越えていく「何か」
真理のような理念としているのだ。

井原西鶴.jpg

江戸時代町人と言うと、TVではなんだかやたらヘラヘラしているだけだが実際は違う、
当時の江戸大阪といえば、世界に冠たる大都市。

その繁栄を地盤に町人たちの学問が大流行、
空前の町人文化を作り上げていたわけで、数多くの私塾が林立、
伊藤仁齋などは、門弟3000人というのだから今時の大学なみ。
塾によっては儒学だけでなく物理学、数学など、地動説も、教えていたようだ。

世之介はその江戸時代の町人なのである。
並でないエリートなのだ。

そしてもう一人がタイトルの「麦人」。

これは、マルクスと並んで共産主義革命を担ったロシア貴族、ミハイル・バクーニンのこと。
バクーニンはタイトル以外は出てこないが、
まさにこの男が、「仲良くない」のである。
どうあっても仲良きことを拒否。
闘争一筋。

これでは革命もうまくいかないわけで、
革命前線からもついには放逐されてしまう。

つまり、バクーニン、損得抜きで、仲良きことを嫌っていた人物か?
あさましいこと、さもしいことが、イヤでいやでしょうがなかった。
なんとしても我慢できなかった……
そういう男だったのではないか?

同じように思わない人はどこにでもいる、
ガリレオもそうだし、アダムスミスだってそう。

ナチス、ヒトラー政権99%の大人気というが
そんなドイツだって、なびかないひとは1%は、いたのである。

posted by あがわい at 22:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする