詩学「論点」は編集担当の篠原さんからの依頼。
嵯峨信之氏は詩については
当初から意見が合わないまま、新宿での詩学主宰の合評会では、
散々な酷評だった私をなぜ篠原氏は起用されたのか?
ついうっかり知らないままの起用だったのかもしれない。
論点では、詩誌掲載の詩編だけを扱った。
詩学から送られて来る詩誌を片っ端から眺めて、
2,3編を選んで、400字詰めで20枚近い原稿を書いた。
たまに室生犀星など有名詩人の詩編にも遭遇したが、
これはパッと見て分かる。謎がない、ピッピと語りかけてくる……
いちいち私が解説しなくとも誰にも分かるわけで、
原稿では取り上げなかった。
取り上げる必要はないと思った。
たまに詩集の中からとりあげたものもある、
タイトルも素晴らしかった。
瞠目の傑作と思った。
だが、普通では解釈できないだろう。
岸田劉生の絵が起点になっていたからだ、
それも有名な「麗子像」ではなく「切り通し」。
鎌倉に当時は実在した切り通しで扇が谷から、
八幡様に行く途中にあった実在の切り通しを
岸田が何枚も描いている。
詩はその切り通しの前で、
精神科の医師と作者が話し込んでいるという詩。
たしか
「日、月、星、ホイ、ホイ、ホイ」といったタイトルではなかったか?
特に劉生の絵との注があるわけではないので、普通では分からない、
だが、なんとも雄大な時と
その時というものの過激さを念頭に置いた、
痛切な詩編、忘れられない。
作者が有るとき一番の思い出はなにかと忘年会で聞かれた時、
「阿賀さんに”日、月、星……”の詩評を書いてもらったこと」
と言われたそうだ、
もの凄い面白さと荒川洋治氏に紹介されたのが、村尾輝子さん。
当時すでに65,6歳ではなかったか?
ガラッパチのお婆ちゃん。
ほんと面白い、楽しい、愉快……でもなぜか、ちっとわからない。
沢山の詩稿をいただいて、
「金のなる木」を自分の出版社で刊行までしたのだが、分からなかった。
亡くなられて、ご家族のことも知った。
昭和を牽引した最優秀のご一族の出身。
ハハア、身分違いで分からなかったか?とか思ったりする。
この方とあと池井昌樹氏は、2か月連続で書いた。
お二人とも10枚かそこらでは、分からなかったせいだ。
池井詩編の場合は雑誌掲載の一篇の詩が気になり、
作者の七月堂で出したという第一詩集を全文コピーしてもらった。
これが素晴らしかった。
その後にはこれに匹敵する詩集を出しておられないのではないか?
なんと言っても第一詩集が一番だった。
が、これは刊行当時は注目されなかったらしい。
版元の木村氏から
「池井作品が阿賀さんによって初めて解読されました」とお手紙いただいた。
思うに、注目されない、酷評される……とはなんなのか?
読者に理解力がないということではないのか?
作品の優劣とは別である。
理解されないほど卓越した詩編、
あまりに高度な詩編であったかもしれないのだ。
だがあまりに酷評されると
がっかりして詩原稿もほっぽってしまう、
捨ててしまったり……
いや待てよ、これに似た詩編をかつて書いた記憶があると
探しても後で探しても出てこなかったり……。
私の場合、詩学で酷評の詩編がそれ。
奇妙な詩編だったが、類似のものが、書けないのだ。
不可思議な詩編、上げ蓋を上げて家屋の地下に降りて行く……
自身の全てを暗示していたように思うことがあるが、全容が思い出せない。
酷評されようが、
絶対捨てるな、めげるな、見捨てるな、
そこに本来の貴方がいると言いたい。