2016年08月24日

嵯峨信之と嘘と谷崎潤一郎4

ところでお手て手洗って嵯峨信之、
さて何が残ったのか?

「嘘」である。

人格者という「嘘」、
それだけが残ったのだ。
以下は最後の絶筆「小詩無辺」の冒頭を飾る一遍。





井戸端に咲き乱れている山吹の花に
太陽が火を放つ
だれの嘘よりも
もっと見事な黄金色の大きな嘘のように




医学でも科学でも嘘は禁物である。
何より真実事実を優先する、
そうでなければ患者は死んでしまうし、
工場は爆発してしまう。
嘘は厳禁中の厳禁である。

だが嵯峨信之は違う、
詩は嘘、嘘でいいとしておられた。
いや、詩こそは嘘を書くべき、と
しておられたのではないか?

キンキラキンの輝く太陽のような
大嘘を作って真実を隠してしまえと、
そう書いておられるではないか!?
この他にもう1つ「嘘」に触れた詩がある



嘘の傘

どこまでいっても1つの言葉にたどりつけない
言葉は人間からはなれたがる

水のような
こうもりの翼のような言葉は
魂いにさしかけている嘘の傘ではないか




「嘘」を書いた二つめの詩。
小さな詩集の中に2つもの「嘘」である。
これほど嘘に固執した詩人はいないのではないか?
これほどまじめに「嘘」に人生を
賭けた男もいないのではないか?

氏はひたすら「嘘」を書かれたのか。
そのひたすらの嘘で、自身のか弱い
「魂い」を守ろうとされたのだろうか。

氏はその詩の静謐と清明で
大量の読者を持つ大家である、
延々と詩誌「詩学」を発行、
戦後日本詩壇を牽引してきた方である。

多くの詩人が直接間接に
嵯峨詩編の傘のなかで詩を書いている。
つまり「嘘」をその内部に隠し持つ。

なるほど見事な詩編が多い。
嵯峨氏のように人格者風で、
しかも嵯峨氏のように
誰彼に嫌われないよう、用心深い詩が多い。

私に言わせれば、これはひたすらの嘘。
ただの嘘、嘘だらけである。
もし嘘でなければ、どうなるのか?
こと、詩の世界では、たちまち失格となる。
つまりこの世界、嘘でないものは、失格するのである。



posted by あがわい at 22:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする