オリーブの樹――。
その公園にはオリーブの樹が数本群がって立っている区域があった。
樹は大きく育ち拡がって、黝い実をたわわにつけていた。
わたしと女友達は実を少しばかりもぎとった。
この公園を抜けると新しくできた美術館がある。
美術館では作品が生活と切り離されてしんと静まり、わたしたちを待っている。
途中には運河があり、黒い細長い鏡のように揺れる世界を示唆していた。
鏡はどこまで深いのだろうか。
それは河の底には関係がなく、
天と同じく測りがたいものであり、それを覗きこみながら行くのだった。
だがわたしたちは、オリーブの林の中で道草をした。
気がつくとわたしたちは二羽の鳥になっていた。
オレンジ色と緑色の、あるいは濃い青の混じった、よく囀る鳥。
脳髄はとても小さく縮んで、わたしたちにぴったりの大きさだった。
わたしたちはうるさいまでに囀り、飛び回ったが、だれに咎められることもなかった。
遠くの方に、おごそかに、静謐に、美術館の屋根が聳え、
その上では大都市の空が水色にけむっていた。
美術館の作品たちは今はもうだれに観られることもなく、
永遠の貌に向って時間を止めていた。
作者の中本道代さんは謎の詩人と言われる。
今までまともに彼女の詩が解説されたのを見たことがない。普通には分からない。
一般人(?)と彼女の間には越え難い溝があるせいだ。
溝は深く、その深さは天と同じくらい測りがたい距離がある。
中本詩篇「鳥2」を縦断するこの運河がその溝である。
この詩の中の女性二人は、その深い深い溝を覗きこみながら、楽々とその溝を超えていく。
が一般人はそういうわけにはいかない。
超えるどころか、その溝を覗きこむことさえできない。
そこにそういう溝があることさえ、感知できないのだ。
溝のことも溝の向う側のことも、知らないままに生き、そして死んで行く。
私の場合はどうなのか。
あの不意に降りてきた海岸風景、
波に洗われている小さな子供たちの靴の風景は、そこから来たのではないか?
そこに私の知らないもう一人の私がいて、別の暮らしをしているのではないか?
ひょっとして、日差しを浴びて、快活で笑いさんざめいて、
何も知らず・・・すべて知らずに・・・
私の場合、向こう側を感知するというより、こちら側に確信が持てない。
自分がはたして、ここ地球にきちんと生きてあるのか、それが分からなくなるときがある。
「あっ、ひょっとして私、もう死んでるのかもしれませんわ、
でも構いませんわね、どっちだって、対して変わりゃしませんしね」
等の中でモゴモゴ言いながら、誰それと話し込んだりしている。
「あなた何,言ってるの? しっかりして! 大丈夫なの?」
「かまやしないと言ってるのよ。生きてるときもかなりいい加減でしたからね、
死んでからは、いよいよ、いい加減になってしまって・・・・」
生きてるんだと徐々にわかってくるのだけど、やはり、いい加減なことを喋っている。
中本さんは私とは違う、決然とさっとばかりに、次元を分けて認識する。
ここと、あちらとの堺をきちんと運河まで作って明示する
画家ポール・デルヴォーの場合はどうなんだろう。
タイトルは「夜の通り」、福岡市美術館が所蔵するが、
いったいぜんたいこんな通りがあるだろうか?
いったいぜんたいこんな帽子があるだろうか?
複雑で豪華で・・・
この二人が、信じられないまでの頭脳の人であることを言っているのだろうか。
二人の叡智は溢れに溢れついに、脳の外側にまで、飛び出し、町をそぞろ歩いたり・・・・
ということなのか。



