2015年05月21日

南風桃子詩集『うずら』

九州はもう春なのかな?
大分県から、とっても可愛い詩集が送られて来た。
南風桃子さんの『うずら』
コロっとしたうずらちゃんの絵が、あちこちに散らばっていて、
これがまた可愛い。

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南風桃子著 『うずら』 空とぶキリン社刊

南風桃子A.jpg
南風桃子さん
 
で可愛い可愛いを連発しながら、ページをめくって行くと、
おやおや可愛いだけでは、すまないので、コロッと、なにか変なもの、
こんなことを言っては神様に失礼と思うものの、
神様みたいなも のが、転がり出てきて……びっくりしてしまった。

天にこだまする福助の声
 
――おまえはカゴの中のうずら。
  いついつでやる?
  生きてる間に出られるとよいがな
  生きておる間にな
  イヒ。
  ――by 福助
       「福助」から(詩集『うずら』所収)

 
自由気ままにしてるようで、人もまたうずらと同じ、
いつも檻の中、なかなか出られない。
「出たぞ!」と思っても、たいがいは別の檻に移っただけ、
おそらくは生涯、檻暮らしではないだろうか?
 
この福助は違う。
平然と檻の外にいて、笑ってる。
おそらくは地球の外であろう。そんなところにいて、
酸欠にもならず、「イヒ」なんて、すごいではないか?
威張るでもなく、力むでもなく、サラリと「イヒ」。
ここが凄い。
これは、並ではない、この福助は神様だと思った。
これこそは正 真正銘の神様だと。
 
思い起こせば、今まで、神様または
神様らしいものを拝んだ記憶がない。
両親は無神論、家には仏壇も神棚もなかった。
たまたま隣が、神主さん。お付き合いで買うハメになったと、
母が持ち込んだ大きな神棚を見たことがあるがそれっきり。
その後は見たことがない。捨てたのだろうか、バチアタリなことである。
 
親戚の家にいくとまずは仏間、どの家も浄土真宗で、
馬鹿でかいキンキンランランの仏壇に手を合わせて挨拶となるのだけれど、
仏壇だから、仏様の像があったはずだが、思い出せない。
記憶から外れている。
いったい何を拝んでいたのか?
問題は仏壇の上の写真。祖父さん祖母さん、
そのまた前の祖父さん祖母さんの写真やら絵姿が
額縁入りで所狭しにひしめいていて、仏様どころではない。
結局はこの方々を拝んでいたのである。
 
仏様の両脇に親鸞様、
その先生の法然様の絵姿を飾られたらどうですか?と
お寺様に薦められたことがあったと伯母は言うが、
この伯母の家でもどの家でも、親鸞様法然様は見かけたことがない。
 
親鸞様といえば、全国各地に自身で彫られたという彫像が残っているが、
眼光ケイケイ恐ろしいばかり、山賊の親分としか見えないのが多い。
家に飾って拝む気にはなれない。
法然さまは、穏やかなまあるいお顔、こっちは拝みやすいようで、
殆どのお姿が横向き。これが気になる。
ソソソソっと何処かへ行ってしまわれそうで、不安になる。
流罪に合われた方、私たちの世話どころではないのでは?と思ってしまう。
 
その点、この福助様は違う。
動かない。ぺたりと畳にへばりついている。
お顔は完璧な福相。どういじろうといじれない、
何があっても「福」から動かない固定型幸福の顔である。
この方を拝まないでおられようか!
 
昔からの正統派神様、イエス様やら仏様の手前、
大っぴらにはいえないのだけど、実は私たちは、
密かに密かに、この福助を拝んできたのではないだろうか?
心の奥の又奥の深いところに小さな座布団をしいて、
福助様をほっこりと乗せ、ほっと一息ついたり……
そうやってきたのではないだろうか。


QP人形
 
奇妙なエッセイも書く漫画家の戸沢タマさんは、
ちいさなころ、QP人形を神様として拝んでいたそうだ。
茶箪笥の上のQP人形に何かといえば、願い事をし、
災難を取っ払ってもらっていたらしい。

その話を聞いた時は、そんなもの拝むなんて気が知れないと思ったのだけれど、
このうずら詩集を読んで、戸沢さんの気持ちが分かるような気がした。
これならしっかりと分かる。
誰にでも分かる。怖いものでも、凄いものでもなく、
マヨネーズとか、美味しいものの世界の何かだと、わかる。
福助も同じ、足袋だか靴下だか、暖かーいものの世界のなにかだとわかる。
福助.jpg
そして仏様のように、イエス様のように、万年一律不変不死の方々、
このお二方が、神様となって何の不都合があるだろうか。
なんせ本邦ジャパン国は、
神様といえば八百万もおいでになるのである。
少々増えようが、構うことではない。

というわけで、このうずら世界では
「福助」神に加えて、QP神もまたおいでになるのである。
キューピー.jpg

「秋」
夏を超えて吹き渡る風
 
「稲がワラッテル」
 
と、QP人形が言っている
なるほど
黄金色の稲穂は
ホホホ
と笑っている


タイトルは「秋」。
その中ほどで、QP神がリンリンとして立っておられる。
「夏を超えて吹き渡る風」の「超えて」に注目してほしい。
「越えて」ではなく「超えて」。

現世から異界へ、異界から現世へ、
現世の夏から、神霊界の秋へ、
境界を超越して吹き渡る風の中にQP様はお立ちなのである。
いかにも楽々と軽やかに現世を超える世界、超えられる世界で、
うずら世界は展開するのである。

稲穂の実る黄金の秋、元気いっぱい目はパッチリのQPさんには、
都会の小部屋の茶箪笥より、輝く稲穂のうねる田畑が似合っている。
QP神やら福助神に守られて、
ここでは稲穂だって、お隣の奥さんみたいに「ホホホっ」と笑うのである。

日本の神様、古来からの由緒正しい神様は、姿形がはっきりしない。
八百万の神、800万いらっしゃるのだから、たとえはっきりしたところで
どうしようもないのだが、だからといって「鰯の頭も信心」など
「鰯の頭」に代理をさせるとは、なにごとであろうか!

鰯は瞬く間に鮮度が落ちてしまう。
店頭に並ぶのはいかにもいかにも情けないしなびた「お顔」。
これを神様とするには余りに申し訳ない。
それよりは福助、またQPがまだマシである。

総じて私たち日本人は日本の神様を拝まない。
仏様とかイエス様とか外来種ばかり、
みんなして命がけで拝んできたのだが、これらはなんといっても外来の方。
本気で他国の者の願い事なんぞ聞いて下さるだろうか?
彼等は彼等なりに自国のことを思っているはずで、
元々は自国のための仕事を行おうと上陸されたのではなかったか?

例えばザビエルが連れてきたイエス様。
これはもう、鉄砲抱えていらしたのだから明白。
日本制圧のためにいらしたわけで、
こういう方に助けてもらうなどとは、無理な話、
見向きもなさらないだろう。

ここからいうとQPさんも福助も純然たる日本産。
おまけに鰯の頭のように鮮度の落ちないお顔のうえ、
他国の特命を受けておられるわけではなさそう。
安心しておがめるのではないか。
さほど偉そうでない分、明日のお弁当のオカズとか、
亭主給料アップとかしょうもないことまでお聞き届けて下さるような気もする。

渡辺昇によると、天皇家のご先祖はおしっこの神様であるとかどこかで読んだ記憶がある。
ああ、こんな神様じゃ、戦争なんて勝てるはずもなかったと今にして思うのだけれど、
どうも私たちの国には弱そうな神様が多い。

対して、狩猟門族の神様、イエス様やらエホバ様は強力である。
旧約聖書の22章。エホバ様は、アブラハムに信仰心の証しとして息子イサクをささげよと命じ、
アブラハムは息子を殺して、その肉をあぶる香りを神様に嗅いでいただいて喜んでもらおうとしたり……。

いかにもいかめしく強そうな神様だが、ここまでの神様には、関わりたくない気がする。

だからといって外来の神様は出て行けというのではない。
ここウズラ世界ではどういう神様がこられようと、万事どこ吹く風で、
みなさまをおおらかにお迎えして、お元気でおられるわけで、例えば阿弥陀様。

五劫のすりきれるまで
修行したあみだ
 
ちょっとまだやってんの?
バッカじゃない?
美しい天女が
衣をひるがえしながら笑う

 
タイトルは「あみだ」。
今度は、インドからお越しの「あみだ」様。

天女にからかわれて、なんともぱっとしないお姿になってしまわれてはいるが、
たまにはこれもいいのではないか?
弁天さまはシャンシャン三味線ひいておられたり、やや様がわりしてはおられるが、
このうずら世界、楽しくしておられるようでそれが嬉しい。

かわりに「ダンゴムシ」やら「ヒメマルカツオブシムシ」やら、
普通ではパッとしない変な虫の方々は、ちと偉そうにというか、
それなりの確信をもって堂々と登場されているわけで、
ああ、これならば、私のようなチンケな者でも威張ってていいような……とか、ほっとするのである。

強力な神様とか何かにしっかり守られていたいというのは、
誰もが思う理想なのだけれど、後ではどうだろうか?
守ってやったんだから息子をくれ、とまではないとして、
何か代償がついていそうで、油断出来ない。
強力な神様、強力な哲学、強力なドクトリン、主義思想皆同じである。

戦後70年、平和続きというのは世界でも珍しいらしいが、
君主といえば、おしっこの神様の末裔、若者といえば、すっかりふやけた飽食青年ばかり、
これではもう平和以外はいきる術がないわけで、まことに不安この上ないのだけれど、
おかげで安穏平和な繁栄大国が実現しているとしたら、不安は不安として弱さを喜ぶべきかもしれない。

とはいえ女性は繁栄より「愛」である。
最後にうずら世界の愛どうなっているのであるか?

こんなに風のある日に
まちを歩くと
すてき
あなたのかけらが風にのって飛んできそうで
あなたの心のにおいとか
あなたのひとみのひかり
使いかけの骨とか歯
いろいろいろいろ
飛んできそうで
ああうれしい
うれしいな
おねがいわたしのなまえを呼んで
風のなかで今
わたしのなまえを呼んで

 
南風桃子詩集、愛の詩編「南風」の全文である。
「かけら」とか「におい」とか「骨」とか、が飛んでくる。
だが肝腎の「あなた」というのは、飛んでは来ない。
きそうにもない。ここが味噌。
 
「それでいい」と作者は思っているのだ。
全部はいらない。
そんな程度でいいのである。
それで十分なのである。

西欧狩猟民族の恋はこうはならない。
たとえば英国「嵐が丘」
相思相愛の恋人たちはバンリキの力をこめてヒシと抱き合う。
身体衰弱化、死にかけていても同じ。
オペラ「椿姫」。高級娼婦マルグリッド。
死のベッドの上で、声たからかに我が愛を唸り喚き散らすのだ。
 
こういう方々にとっては、愛のかけらなど、そんなものが飛んできた所で
蚊が飛んでるかていど、気づきもしないだとう。
 
どちらの愛が真実なのか?
どちらの愛が高級なのか?

それは置くとして、事は我が身である。
長く深く欧州型過激愛に憧れながらも
ついにありつくこともないままの恨み辛みからかもだが、
はたして実際に、そんなものが飛んで来たらどうなるか?
つまり「あなた」がここに飛んできたらどうなるか?

バンリキの力で、ヒシと抱きつかれでもしたら、長身痩躯ベジタリアンの私など、
小骨の3、4本はパリパリ折れまくって、大骨にもヒビなどはいったりして、痛さも痛し、
「愛」どころではない。
全部はいらない、カケラでいい、カオリ程度でいい。
これが「愛」なのだ。

おねがいわたしのなまえを呼んで
風のなかで今
わたしのなまえを呼んで

 
最後の3連が秀逸。
ここでも風が吹いている、知力の果ての異界ヘと吹き渡る風、
この愛は無限にどこまでも貴方を追って行くのだ。



posted by あがわい at 21:34| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする