2009年09月23日

9.23

目下準備中の対談エッセイ、「ドラゴン」。
1章から7章まである。
1章の大体の概要は以下の感じ。
Nとあるのが、中本道代さん。
Aというのが、阿賀。
Tは戸沢英土。
戸沢さんは奇怪漫画家だけど、自分では散漫漫画家と言ってる。

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15周年クロコダイル朗読会
「詩の境界」
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2009年07月03日

第42回小熊賞贈呈式 浜江順子さんに「詩人の椅子」

浜江順子さんは、詩誌JO5の主力メンバーとして、
自由闊達な詩の他、東京のおかまたちの帰結を探った
”おかまの**”の連載でも人気を博した。

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詩誌JO5メンバー、中本道代さんが、丸山賞を受賞

詩誌JO5メンバー、中本道代さんが、丸山賞を受賞。
中本さんは繊細な外貌の人だけれど、詩は野性的で、基本的にはデンジャラスだ。
つまり野生とデンジャラスを、繊細モードで、さらりと隠しているので、
一見するとわけわからん詩に見える。
とはいえ、いったん呑み込むと、これは!と驚く芳醇な世界。
ゆっくりたのしめる。
以下は西日本新聞が伝える、受賞風景。

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2009年06月28日

☆6月13日、舞踏家十亀脩之介に第一子誕生☆

モータースポーツおめでとう!モータースポーツ
6月13日、舞踏家十亀脩之介に第一子誕生!
薫一君、クンイチ と読みます。
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皆様、ヨロシク!という事でした。
 ※お祝いを贈りたい方で住所がわからない人は、
  こちらにご連絡ください。




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2009年02月14日

2.14

和久井君の詩篇でキクイクニヒコさんが、絵をつけています。見て下さい。
「あとりえ じゅうさん」
和久井君が、まだ生きてるみたいで、なんだか、感激した。


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2009年01月16日

12.24「風都市から鳥へ」2

  その6 男性論?

絵画作品といえばまずは女性が描かれるのが普通とはいえ、
デルヴォーのようにここまで女ばかりというのも珍しい。
女性が人間のメイン、男性は副次的なものとでもいう視点があるのだろうか?
先の絵画「夜の通り」の男性は、SF作家ジュール・ヴェルヌへのオマージュとして描かれたもの。
このメガネの男は、ヴェルヌ自身との解説もあるが、
実際のジュール・ヴェルヌは、作家の他に政治家でもあったので、
もっと恰幅がよく、このメガネの男とは似ていない。
外見から言うなら「八十日間世界一周」に出てくる
冒険家の英国紳士フォッグ氏あたりではないかと思われるが、
顔をよーく見てみよう。まるで子供の顔なのだ。
実はデルヴォー、この絵は自作ではなく、
当時発売されていたジュール・ベルヌの小説の挿絵を、そのまま持ってきたというのである。
大変な技量を合わせ持つデルヴォーのこと、
男の一人や二人、アットいう間に描けるはずである。
それをなぜそこまで手の込んだ方法をとったのか?
 彼自身では描けないほどに幼稚かつ単純な男を描きたかったからではないか?
中身のない薄いぺランぺランの人間、これはこれでなかなか描けないもの、
だから子供向けの本から借りてきたのではないか?
服を着けた全身で見ると、そこまでぺランぺランにも単純には見えない。
服はちゃんと大人用で、たいしたものである。
だがこのかっちりした背広だの燕尾服だの、
これら社会の衣装を脱いだらどうなるか?である。
 ここまで痩せていれば、もう人というより割りばしとか棒きれとかその類、
目はついているので、棒きれに目をちょっとつけただけの
簡単なロボット風なものが出てくるのではないか?
だが男とは本来、こういうものではないだろうか?
様々の付属物、虚飾を取り払った後の男というのは、
こういうものではないのだろうか? 

 男たちは?
 あぶく、
 偽の指導者たち、
 偽の僧侶たち、
 似たり寄ったりの思想家たち‥
 筋骨たくましいのは見かけ倒しで、
 エネルギーは代用され、委任される……
     (フィリップ・ソレルス著『女たち』鈴木創士訳)


これはフランス作家で批評家としても活躍するフィリップ・ソレルス。
偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち…
こういうもので世界は作られてきて、そしてその成果として殺戮と
資源枯渇の奇怪な地球になったとは言えないか?
正義を唱えながら虐殺に走ったヒトラー、
平和と民主主義を声高らかに叫びながら、
雨あられと世界中に砲弾を打ち込むブッシュ……
正義だの平和だの、これらは一体何だったのか?
こんなものは、一切合切突っぱらった方がいいのではないか?
なるほど二〇〇〇年もの間、私たちを守ってきた立派な思想であり、
文明であろうが、こんな衣装はなくともよかったのではなかったか?
背広や燕尾服にかっちりと身を固めているうちに、
中身が弱体化してしまったのかどうか、
社会に順応していくことで人々は個性を失い、
似たりよったりのか弱い類型品になってしまった……
とこう弱体化を嘆くべきかもしれないが、ポイントは弱体化である。
話は逆、これこそが大事なポイントになる。



 その7 冒険者たち

デルヴォーは、なぜいちいち苦労をして他人の挿絵を借りてまで、
弱体化したかったか? そこまでに単純な男を描きたかったか? である。
こういう男でなければ異次元へは行けないからである。
ここまでの単純なぺランぺランになったからこそ見える世界であり、
そうならなければその世界には入ることはできない。
知性だの教養だの普通ならどっさり搭載しているはずの脳髄を持っていないのだ。
捨ててしまったのか元からないのか、ともかく脳髄が軽いのだ。
栄枯盛衰、新しい世界が栄えるには、古い世界は枯れて衰えなければならない。
そうでなければ新しい世界そのものが見えない。
過去を枯らし、捨てきってこその視力だろう。
その裸眼で新しい世界、異次元を見つけたのだ。
なぜアリスは、またジュール・ヴェルヌのメガネ男は、
中本詩篇の女二人は、異次元へ行けたのか。
一切合切を捨てているからだろう。
アリスは、5歳だからできたのである。
中本詩篇の二人も同じ。
おそらくは、その公園のオリーブの実を食べて鳥になった、
軽く小さな鳥になった…それが決め手だろう。


脳髄はとても小さく縮んで、わたしたちにぴったりの大きさだった。
                   (前掲、中本道代著「花と死王」)
  


複雑なアイロニーに満ちて卓抜である。
鳥型の小さな小さな頭脳だからこそ、
複雑に入り組んだ過去の頭脳を捨てたからこそ、
彼女たちは異次元へと飛び立てたのである。
道中の危険を危ぶむ人がいるかもしれない。
全くの無防備なままに旅立つ冒険者たち。
危険な未知の闇が、彼らを覆ってしまうかもしれない。
だが新しい世界は、こういう形で開かれてきたのではなかったか?
これら小さな冒険者たちの勇気によって、
闇の世界は漆黒のベールを脱いできたのではなかったか? 
 冒険者たちの虚弱をまたその小さな脳髄を笑う人がいるかもしれない。
だが5次元の宇宙は、私たちに驚くような影響を及ぼしている、
とリザ・ランドールは、推測しているから注意した方がいい。
それら小さな冒険者たちは、すでに驚くべき知的生命体として生き始めてはいないか?
 その世界に入った以上、その世界へ行き着いた以上、
彼らは、もう無知のままではないだろう。
遠い未来まで見通す恐るべき目のようなものとして、
無限の知の人として、生き始めていたりしないか。
かって地球の男たちが作り上げた偽物はもういらない。
文明の衣装を脱ぎ棄てて裸で自在に動きまわるある生命体。
それら神のようなものたち、
豊満な肉体を思いのままにさらけ出し、
投げ出して、
自在に戸外にまで繰り出して行くデルヴォーの女たち……
彼女たちは、ひょっとして一種神のようなものではないのか。
鏡の中に閉じ込められた小さな宇宙動物園を眺めて、
たまにいじったりしている、ある神のようなものたちではないのか?
「だれに咎められることもなく」
「うるさいまでに囀り、飛び回る」
中本詩篇のにぎやかな2匹の小鳥は、ここでは英知の人へと変貌、
遠く水色に煙る町を、穏やかな風の吹きわたる風都市を、
笑い興じながら、眺めているのかもしれない。
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12.24「風都市から鳥へ」1

左側の方は、よく見たところで特におかしいところは
見つからない。ありきたりの室内風景かと思われるが、
メガネの男はフランス作家ジュール・ヴェルヌの小説から。
小説の挿絵をそのまま使用しているという。
ジュール・ヴェルヌといえばSF小説の開祖。
『地底探検』『月世界旅行』『海底二万里』『浮かぶ都市』『八十日間世界一周』と
名作傑作の数々を紡ぎ出した作家。SF小説だから、その大半は異次元が舞台だ。
結局ジュール・ヴェルヌを登場させる以上、
デルヴォーもまた異次元を描いたと言っているわけで、
自身の絵画の構造を明示した作品かと思われる。
 普通はデルヴォーは女ばかり、
つまり異次元だけを描くが、これはたまさかの男性も参加、
異次元と合わせて現実をも同一画面に入れこんでいる。
この点で先の詩篇、瀬崎詩篇や中本詩篇によく似ている。
特に中本詩篇「鳥」。

「鳥」を流れる鏡のように揺れる川、
これがデルヴォー絵画を左右に縦断する黒々とした壁にあたるわけで、
この壁もおそらくは、ずっと上まで、川と同じく
「測りがたいほどの」高さまで続いているのだろう。
この壁が室内の男性側では鏡になっているのも、「鳥」を流れる鏡の川に通じていく。
これら川また壁が、私たちの世界と異次元とを分ける境界になる。
大きな鏡の壁、恐ろしい深さの鏡のような川、これを誰か越えることができるのか?
いったい誰が壁の向こうを見ることができるのか? 
けれど、現実はこのようになっている、とプレヴォーは描くのである。
こういう構造の中を私たちは生きていると中本詩篇は見ているのである。



その5  リザ・ランドール。
 
異次元といえば、目下はアメリカ物理学者のリザ・ランドール。
「わたしたちの暮らす3次元世界は、
人間の目には見えない5次元世界に組み込まれている」と
一九九九年に発表、一躍世界の注目を集めた。

私たちは、その3次元の膜にぴったりと貼りついていて、
そこを飛び出して5次元世界に入って行く方法はないのです
 (リザ・ランドール、若田光一『異次元は存在する』、NHK出版)


リザは私たちの宇宙についてこう言っている。
これでは一挙に巨大空間が広がってしまう。
大きな大きな幕またはカーテン、それにこびりついた宇宙、
太陽や月や星なんて、思いも及ばない光景になってしまう。
私たちの大地、つまりは地球も空の星も共々に広大無辺の見知らぬ天体へと放り出され、
あてどなく浮遊し始めてしまう。
目にも見えない世界、入って行く方法もない世界というなら、
では私たちが夜空に見る、あの無限なまでの銀河の世界は何なのか?
宇宙飛行士が飛び出していく、星の世界は何なのか、である。
このあたりは竹内薫が紹介するジョージ・エリスの説が、奇妙だけれど案外納得するものがある。
エリスは「我々は宇宙の中の動物園にいるようなもの」、というのである。

どこまで行ってもわれわれはこの宇宙から出ることは叶わず、
周りを囲む鏡に己の姿を垣間見て「あそこにも違う銀河がある、
違う宇宙がある」と騒いでいるだけ
 (竹内薫『夜の物理学』イオンデックス・コミュニケーションズ)


エリスはこの宇宙は誰かが作った「動物園」だと言う。
エリスを紹介する竹内薫もまた「人類は、鏡に囲まれた仮想世界の夢を、
この宇宙という揺りかごの中でむさぼっているのに過ぎないのかも知れない」との疑惑を漏らしている。

ここでまた先のデルヴォー絵画「夜の通り」を見たい。
メガネの男が、手にして覗きこんでいるのは何か?
ひょっとして、これは私たちの宇宙の圧縮模型ではないか?
部屋には窓はない。通りに面した壁には鏡が貼り付けられて、
通りを見ることができない。おそらくその壁は縦に横に無限に広がり、
その壁からは、右側の世界へは、行くことはおろか、見ることさえできないだろう。
それで一生懸命その圧縮模型を覗きこんでいるのではないか?
男はこの模型を通して、その模型の中の小さな穴から、異次元世界、
この不可思議な女たちの世界を垣間見ているのではないか?

目にも見えない世界、入って行く方法もない世界と物理学者は言う。
しかし物理学者、数学者はそう言いながら、
せっせと侵入を試み、あれこれとその世界を書く…。
先のリザ・ランドールが幼き日に愛読したという『不思議な国のアリス』も
作者は数学者、英国のルイス・キャロルが書いている。
突然小さくなってウサギの穴に落っこちて異次元世界で暮らし始める少女アリス、
おなじみの物語だ。
定常宇宙論の提唱者の一人、フレッド・ホイルもそう。
時間テーマの傑作『十月一日では遅すぎる』や『アンドロメダのA』など、
遠慮会釈なくズカズカと突進して、その異次元世界で縦横に暴れ回っている。
これらは学者たちの宇宙より、もう少し私たちの日常に密着、
個人の内部に広がる異次元を、日常の一つの現実として正確に辿ったのが、
瀬崎中本の両詩篇であり、またデルヴォー絵画だろう。
つまり異次元は、ロケットででかけるものではなく、常に私たちの内部にひそみ、
内部の奥で深々とその不可思議な世界を開示しているのではないか?
瀬崎、中本、詩人たちは窓の外ではなく、デルヴォーのメガネの男のように、
内部を覗きこむ。おそらくは内部にひそむ小さな穴から、その外側、
すべてを包含するある異次元を垣間見ているのではないか? 
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2008年11月20日

11.21「鳥」

鳥     中本道代

オリーブの樹――。
その公園にはオリーブの樹が数本群がって立っている区域があった。
樹は大きく育ち拡がって、黝い実をたわわにつけていた。
わたしと女友達は実を少しばかりもぎとった。
この公園を抜けると新しくできた美術館がある。
美術館では作品が生活と切り離されてしんと静まり、わたしたちを待っている。
途中には運河があり、黒い細長い鏡のように揺れる世界を示唆していた。
鏡はどこまで深いのだろうか。
それは河の底には関係がなく、
天と同じく測りがたいものであり、それを覗きこみながら行くのだった。
だがわたしたちは、オリーブの林の中で道草をした。
気がつくとわたしたちは二羽の鳥になっていた。
オレンジ色と緑色の、あるいは濃い青の混じった、よく囀る鳥。
脳髄はとても小さく縮んで、わたしたちにぴったりの大きさだった。
わたしたちはうるさいまでに囀り、飛び回ったが、だれに咎められることもなかった。
遠くの方に、おごそかに、静謐に、美術館の屋根が聳え、
その上では大都市の空が水色にけむっていた。
美術館の作品たちは今はもうだれに観られることもなく、
永遠の貌に向って時間を止めていた。




作者の中本道代さんは謎の詩人と言われる。
今までまともに彼女の詩が解説されたのを見たことがない。普通には分からない。
一般人(?)と彼女の間には越え難い溝があるせいだ。
溝は深く、その深さは天と同じくらい測りがたい距離がある。
中本詩篇「鳥2」を縦断するこの運河がその溝である。
この詩の中の女性二人は、その深い深い溝を覗きこみながら、楽々とその溝を超えていく。
が一般人はそういうわけにはいかない。
超えるどころか、その溝を覗きこむことさえできない。
そこにそういう溝があることさえ、感知できないのだ。
溝のことも溝の向う側のことも、知らないままに生き、そして死んで行く。

私の場合はどうなのか。
あの不意に降りてきた海岸風景、
波に洗われている小さな子供たちの靴の風景は、そこから来たのではないか?
そこに私の知らないもう一人の私がいて、別の暮らしをしているのではないか?
ひょっとして、日差しを浴びて、快活で笑いさんざめいて、
何も知らず・・・すべて知らずに・・・

私の場合、向こう側を感知するというより、こちら側に確信が持てない。
自分がはたして、ここ地球にきちんと生きてあるのか、それが分からなくなるときがある。
「あっ、ひょっとして私、もう死んでるのかもしれませんわ、
でも構いませんわね、どっちだって、対して変わりゃしませんしね」
等の中でモゴモゴ言いながら、誰それと話し込んだりしている。
「あなた何,言ってるの?  しっかりして! 大丈夫なの?」
「かまやしないと言ってるのよ。生きてるときもかなりいい加減でしたからね、
死んでからは、いよいよ、いい加減になってしまって・・・・」
生きてるんだと徐々にわかってくるのだけど、やはり、いい加減なことを喋っている。

中本さんは私とは違う、決然とさっとばかりに、次元を分けて認識する。
ここと、あちらとの堺をきちんと運河まで作って明示する
画家ポール・デルヴォーの場合はどうなんだろう。

11-21.JPG

タイトルは「夜の通り」、福岡市美術館が所蔵するが、
いったいぜんたいこんな通りがあるだろうか?
いったいぜんたいこんな帽子があるだろうか?
複雑で豪華で・・・
この二人が、信じられないまでの頭脳の人であることを言っているのだろうか。
二人の叡智は溢れに溢れついに、脳の外側にまで、飛び出し、町をそぞろ歩いたり・・・・
ということなのか。




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2008年11月12日

11.7「風都市」

「風都市」は、倉敷市で瀬崎祐氏が発行する詩誌。

倉敷には風が吹き渡っているのだろうか? 
または瀬戸内海、凪ぎの国の無風を倦んで、風都市としたのか。
以下はその風都市、18号から

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防備録SIDE A・迂回    瀬崎 祐

山上の展望台からはいろいろなものが見える
いろいろな観光地をめぐったが
こんなに気持ちの良い曇り空の日も珍しい
わたしを取りかこんだ湿った空気はねっとりと重い
わたしの鋳型がいたるところで一人歩きを始めてしまいそうだ
おまけに案内所のおばさんは親切だ
寒い地方から届いた手紙の束を ほらほらと 取り出す
展望台の反対側から
幼子を抱いた恭子さんがやってくる
ああ 恭子さんも母親になることが出来たのだなと 感傷的になる

恭子さんに会うのは四十年ぶりだし
ひどい別れ方をしたきりだったので
手紙の束を ほらほらと 恭子さんにも見せる
しかし恭子さんは何も答えずに微笑んでいるだけだ
異国の言葉で暮らしてきたのだから無理もないなと思う
手紙の束をおばさんに返して石段を下りて駐車場へ戻ろうとする
恭子さんは(石段の上で立ち止まる
土産店に並んだ動物のぬいぐるみを幼子に見せている
幼子の振る小さな手に年月がまとわりついている
恭子さんは(広場には降りてこない
恭子さんは異国の人達と一緒に来ているのだから
別の駐車場から帰っていく
年月はねっとりと重いのだから
寒い地方に残してきた鋳型の話をしておくのだったと後悔する
恭子さんの乗ったバスを追いかけることは無益だろう
それぞれの年月は
山の上の展望台でひととき交わっただけなのだから
そういえば
わたしの子ども達はどこへ行ったのだろう

子ども達を探してショッピング・センターに入る
店の一角の広場では華やかな催し物をしている
壁面をきらきらとしたモールが飾り
大音量の音楽が流れている
恭子さんはもう海を渡っている頃だろう
わたしからは見えていた恭子さんだが
恭子さんにはわたしは見えていなかったのだろう
道化師たちと一緒に見知らぬ子ども達ばかりが走り回っている
そんな子ども達に行く手を遮られて
広場を横切ることも出来ず
こんな場所で
わたしは
大きく迂回をしている

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最後まで読んでタイトルに戻りその複雑にして微妙な世界を何度か迂回して読んだ。
短編小説をでも読むように、流れるようにしてごく自然に、別次元へと浸って、話は進んでいく

山の上の展望台で、昔別れた恭子さんに再会するのだな、と思って読んでいくと、そうではない。

山の上の展望台もまた恭子さんも、すべて「わたくし」が
記憶の中から紡ぎだして、作り出した世界であって、現実の世界ではないのだ。

風に吹かれて揺らぐ風都市の人たちだけでなく、
普通私たちはこういう形で生きているのではないか?
もう一つ別の世界を作り出し、その世界で 呼吸し、笑い、泣き…

日常と、またそうではない世界と、すべては風に吹かれて、混じり合い、
こうして新たな現実や日常が作られていく。


ひょっとして、それは幻覚の世界でしかないのかもしれないが、
実はこういう別の世界が、どこかには実在して、
そこでなら恭子さんと何らかの、コンタクトをとることができたりはしないか…
そういう微かな期待を持ってしまう。


以上は風都市の世界。
「迂回」してなんとか探りだされた世界だが、
逆に予期せぬ別世界が突然降ってくることがある。
ドカンと落ちてくる。意味も分からない。

初めにその夢を見たのは結婚して間もないころ、海岸の風景。
きちんと並んだ小さな子供の靴が、波に洗われている光景を見た。
少し離れてやや乱暴の脱ぎ捨てられた女性の靴もあったりした。

場所は、当時住んでいた鎌倉、由比ヶ浜だと思った。
何度も波はやってくるのに、靴はそこに行儀よく並んだまま、動かずにあった。
海の水も妙に透き通っていたので、靴ひもや靴の模様まで見えた。

特に私に関係があるようにも思えず、忘れていたのを、よほど後になって、
同じ夢に襲われてから思い出した。あ、由比ヶ浜だ、と思った。
今度は離れたところで騒いでいる人たちの話し声まで聞こえた。
親子が入水したらしい。この靴の主たちのことだなと私は思った。

全てが、現実のように重くのしかかって来て、苦しくて目が覚めた。
この同じ夢にその後、一度ならず襲われた。

結局その後の私はその夢に支配されたといってもいい。
その夢に、行く手を阻まれ、私は自分の生を切り開くことができなかった。
扉を前に手も足も出ず、そこに蹲ったままになってしまった。

だが、いったいその夢はどこから来たのだろうか。
鎌倉由比ヶ浜に遊ぶ若き日の私に、なぜ遠い未来の夢が送られてきたのか? 

遠い未来に起こりえたかもしれない悪夢のようなある光景、
誰が、なぜ、そんなものを送りつけてきたのか?

どこかにすべてを見通す「目」のようなものがあり、それが私たちを支配している・・・・
ふとそう思うことがある。

風都市の人のように、注意深く入念に、記憶の糸を手繰ったとしても、
決してそこには行くことはできないのだけれど、
なぜか、ある期待を込めて、その全能の目を思う事がある。



次は、その世界へ、その不可思議の次元が舞台。
まっしぐらに異次元へと突き進んだのが、中本道代詩篇「鳥」、
本年七月発行、詩集「花と死王」が収録する一篇だ。
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2008年07月16日

7月19日 和久井展 inあかね

5月31日土曜日、
車椅子詩人、ダンサーでもあった和久井孝美くんが亡くなりました。(享年33歳)
その和久井くんを偲んで多くの人たちと交流したいと思います。

2008年7月19日(土曜日)
13:00〜
チャージ200円

東京都新宿区西早稲田 2−1−17 酒井ビル 1F
(東京地下鉄東西線 早稲田駅下車 徒歩3分 早稲田大学文学部前)
03−5292−1877



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